学寮の住居単位は、明治二年(一八六九)の山内図で示す街区をさらに分割した中にあり、寮は主の名で呼ばれていた。寺の住職として外へ迎えられたときには、学寮舎の運営権も増上寺に返上する形式となっていたとみられる。敷地面積は役寮など一部の大規模なものを除くと二〇〇坪前後が中心である。他の江戸檀林寺院と比べても、増上寺学寮は水準以上の規模だったと思われる。
このような学寮の建造物は、門の多くは屋根がない冠木門(かぶきもん)のようである。主屋は修行部分として、仏間を筆頭に二之間、三之間等の部屋が一列に並ぶ。玄関と「茶ノ間」に接続し、生活部分である個室や大部屋の集合した惣寮と呼ばれる空間、台所などで構成されていた。これらに寮主の室や若干の接客等の空間を加えていったもので学寮は成立していたようだが、ごく一部には大名宿坊の役割を担っていたものもあった。
以上、本項ではすべてを紹介できなかったが、表3-3-1にて継承されている山内寺院や学寮を前身とする寺院を参照いただきたい。現在旧境内領域で継承されている山内寺院は二七院、都内や他県に移転したものを含めると総数三四院となっている。口絵10は明治三四年(一九〇一)の増上寺山内を立体的かつ精細に描く銅版画である。各院が江戸期から継承されていることが江戸の記憶を伝承する旧跡そのものであり、等しく意義深いことといえる。 (伊坂道子)
表3-3-1 増上寺旧境内の歴史的建造物等リスト 352~353ページ 図3-3-1に対応
表3-3-2 増上寺山内寺院(支院)等一覧表