江戸の神社世界

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 幕府は神社世界に対しては、寛文五年(一六六五)に諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を発布して統制に乗り出している。神社はこれを契機に、「神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)」を称する京都吉田神社の祠官(しかん)吉田家に編成されていくことになった。すなわち、この法令によって神職が位階を受ける場合は、公家の取り次ぎを経て勅許を受けることが必要となり、これには特定の公家へのつてと多大な出費がともなうこととなった。これでは大多数の神職は位階を得られないわけだが、さらにこの条文には「無位之社人可着白張(むいのしゃじんはくちょうをきるべし)、其外之装束者以吉田之許状可着之事(そのほかのしょうぞくはよしだのきょじょうをもってきるべきのこと)」とあり、吉田家の発給する許状(神道裁許状)を得られなければ、下賎の服とされた白張(はくちょう)を着用しなければならないとされた。この条文があることによって、位階よりも軽微な負担で獲得できる吉田家の許状を求める神職を一気に増やすこととなり、諸国の神職の多くがその統括者(本所)たる吉田家と関係を持つようになっていった。吉田家はこれを好機として、諸国の神社に神位を授与する「宗源宣旨(そうげんせんじ)」とともに、神社・神職の序列化を図っていったのである(井上 二〇一三)。これに対し、一八世紀中頃に神祇伯(じんぎはく)の白川家が諸国を巡回して「宮守(みやもり)」のような専業の神職でない者たちを配下に編成するようになると、以後は両家が神社・神職の序列化を競うようになっていった。
 なお、当時の寺社世界は、仏も神も淵源(えんげん)を尋ねるとみな同体であるという神仏習合思想が一般的であり、この世の神々は、人間を救い教化するため、仏や菩薩がいろいろな姿で現れた化身であるとし、その本来の姿である仏・菩薩のことを本地仏(ほんじぶつ)といった。こうした考え方を本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といい、祭神に対して本地仏が設定されることが多かった。それゆえ、神社に別当寺院が置かれ、神社運営の実権を掌握する状況や、境内に仏教系の堂舎と神道系の末社が存在することも多かった。そしてこうした混在状況が変えられたのは、明治元年(一八六八)の神仏分離令以降のことである。