赤坂氷川社の移転

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 紀州藩主から八代将軍となった徳川吉宗とその嗣子九代将軍徳川家重は、赤坂に紀州藩中屋敷(二章一節二項参照)があることから、一ツ木町の氷川社を産土神(うぶすながみ)と認識していた。事実、九代家重誕生後の宮参りは氷川社で行っているのである。八代吉宗は氷川社に対し、まず享保一四年(一七二九)九月二八日に社領として代々木村に二〇〇石(図3-4-2-1)と、三河台の三次(みよし)藩浅野家上屋敷跡地四九三〇坪を寄進し、移転を命じた。そして老中水野忠之を総責任者とする社殿の造営が行われ、二間(三・六メートル)四方の本社、二間×二間半(四・五メートル)の幣殿、五間×二間半の拝殿が完成し、翌年(一七三〇)四月二五日に上棟式を迎えた。このときには幕府から派遣された目付が列席している。遷座(せんざ)が行われたのが翌二六日のことで、老中水野忠之以下、寺社奉行土岐頼稔(ときよりとし)・黒田直邦・小普請奉行石野範種(のりたね)・目付松前広隆らが列席している。造営・遷座にあたり、幕府からは神器類や社用の品々が寄付され、徳川将軍家の永代祈願所となっている。なお、遷座の二日後に八代吉宗の参拝があり、遷座祈禱の褒美として、別当の大乗院実延や神主・社僧らに銀三〇枚を下賜している。
 こうして幕府の政治的な意向によって整備された赤坂氷川社は、江戸屈指の有力寺社として明治維新まで引き継がれていくことになる。
 祭礼(五章二節二項参照)は山王祭に対して隔年で六月一五日に行われ、その際に将軍とその家族および大奥に札守・神供を献上する慣例があったほか、毎年正・五・九月に将軍・御台所(将軍正室)の名代として大奥から湯神楽の奉納があった。また、将軍誕生日にも名代が派遣されるのが慣例だった。
 将軍や世子が参詣に訪れることもあり、そのときには真剣・神馬の献上があった。記録では遷座五か月後の九月二六日に将軍世子の家重、元文二年(一七三七)二月一二日に将軍吉宗、同年一〇月七日に世子家重、延享二年(一七四五)一二月二日に九代将軍となった家重、宝暦一一年(一七六一)四月二二日に一〇代将軍徳川家治が参詣していることがわかっている(「寺社書上」)。なお、当時御神体の三神と十一面観音像は「秘尊」として将軍参詣のときでさえ公開しなかったという。
 遷座後の赤坂氷川社は、文政一〇年(一八二七)の調査の内容が記載されている「寺社書上」の記述にしたがえば、境内には護摩堂・弁天堂があり、なかでも弁天堂に祀られている弁才(財)天像は、新社殿の造営の際に江戸城本丸大奥から寄進されたものだという。そして他に末社として神明・八幡・春日・鹿島・諏訪・稲荷・庚申が境内に祀られていた。また、社領として拝領した朱印地二〇〇石の内訳は、修理料一〇〇石・別当大乗院分五〇石・社人斎藤右膳分三〇石・神供料二〇石というものだった(「氷川明神社領配当目録」赤坂氷川神社所蔵)。
 つまり、境内は仏教系の堂舎と神道系の祠が混在する状況であり、神社に奉仕する者や、おそらく内外の装飾や奉納物から使用する道具に至るまで、双方の要素が混在していたと考えられる。なお、こうした神仏習合状態の赤坂氷川社は、祭神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)の三神の本地仏を十一面観音であると位置付けているのである。

図3-4-2-2 「氷川明神之絵図附り享保十五戌年九月大納言様御成之筋勤番」
([江戸城内并芝上野山内其他御成絵図])国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 それゆえ、赤坂氷川社には神社の祭祀や管理などの支配権を持つ別当寺院が付属しており、これを大乗院(神留山無動寺大乗院(むどうじだいじょういん))といい、氷川明神境内に四一〇坪余を占めていた。そして、大乗院の住職のほか、僧形で祭祀・読経・加持祈禱をする社僧と、これとは別に神主にあたる社人の斎藤右膳が神社に奉仕していたわけである。
 ところで、境内を描いたものとして、古くは「氷川明神之絵図附(つけた)り享保十五戌年九月大納言様御成(おなり)之筋(すじ)勤番」が知られる(図3-4-2-2)。これは文政三年(一八二〇)五月に中川高寿という人物が写したもので、享保一五年(一七三〇)の社殿完成当初に将軍世子の家重の参拝順路を朱線で記し、警備の役人の配置が示されている。これによれば、絵図の右上、すなわち南側に表門があり、参詣者はここから入って左手の石段を上り、鳥居をくぐって少し進むと右手に再び鳥居が見え、そしてその先にある社殿に進むというのが当時の基本的な参拝順路だったことがわかる。
 このほか、赤坂氷川社が遷座ののち、一ツ木町の旧地に設けられた御旅所があった。敷地は一九三〇坪あり、境内に弁天堂や太子堂があった。幕末の絵図では龍泉寺に隣接する地にあたり、氏子町に囲まれていることがわかる。隔年六月一五日に行われる同社の祭礼では、神輿・山車・附祭が巡行する重要な場所でもあった。