麻布氷川社は、万治二年(一六五九)にそれまで鎮座していた地が幕府によって召し上げられ、増上寺の下屋敷(隠居屋敷、本章三節参照)となるにおよんで、麻布本村町(現在の麻布十番二丁目)に替地を拝領し移転した。境内は一三九坪余で、元地周辺には宮村町(現在の麻布十番二丁目、六本木六丁目)・宮下町(現在の麻布十番一丁目)が成立しており、本村町から元地周辺の町々を氏子町としていた(祭礼については五章二節三項参照)。また、別当徳乗院は新義真言宗に属し、享保一九年(一七三四)に北日ヶ窪(きたひがくぼ)町(現在の六本木五・六丁目)稲荷社から麻布氷川社境内に移ったという(「寺社書上」)。なお、この徳乗院は北日ヶ窪町弁財天堂と朝日稲荷の別当も兼務していた。
一方、白金氷川明神は、一九世紀には社地除地五四〇坪、年貢地一五四四坪で、境内に神楽堂と稲荷社があった。そして周辺の白金村・白金台町・今里村(現在の白金一~六丁目、白金台一~五丁目ほか)などの鎮守となっていた(「寺社書上」)。明和九年(一七七二)二月の目黒行人坂の大火により類焼しているが、社殿は宝暦二年(一七五二)に造営し、嘉永五年(一八五二)には拝殿を銅葺(どうぶき)にしたという。また、別当に報恩寺があり、天台宗に属し、山王権現(日枝神社、東京都千代田区永田町)別当勧理院(かんりいん)の末寺だったが、明治維新で廃寺となっている。
また、赤坂氷川社北隣の盛徳寺境内には本(元)氷川社があった。本氷川社の社名は赤坂氷川社がここに遷座する以前から鎮座していたための称といえよう。文政一〇年(一八二七)六月に盛徳寺が書き上げた内容によれば、九二〇坪の境内の一角に本氷川社があり、創建年代は明らかでないものの、もとは溜池の大多喜藩松平備前守邸内の地にあったようだが、承応三年(一六五四)、盛徳寺とともに幕府から現在地に替地を与えられて移ったという(「寺社書上」)。そして維新後、本氷川神社に改称した同社は明治一六年(一八八三)四月、赤坂氷川神社に合祀されている。 (滝口正哉)