江戸屈指の盛り場・芝神明宮

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 芝神明宮(現在の芝大神宮)の祭神は天照皇大神宮と豊受大神宮で、寛弘二年(一〇〇五)九月一六日に伊勢の内外両宮の御分霊を祀り創建されたという。古くは飯倉神明宮・日比谷神明宮などともいわれ、当初の所在地である「飯倉」の地名は、伊勢神宮への神饌(しんせん)(神前に供える酒食)を収める倉に由来するという説があり、『吾妻鏡』には寿永三年(一一八四)五月三日、源頼朝が飯倉の地に御厨(みくりや)を寄進したと記されている。
 寛永一一年(一六三四)三月一八日に寺社奉行所に提出した由緒書によれば、同社は源頼朝が将軍の頃に一三〇〇貫の社領があり、社家(しゃけ)(世襲神職)が三六人もあって、毎年正月一六日には国家安全の祈禱をしていたが、戦国時代の後北条氏の時代になって退転してしまったとしている(「神明宮別当・神主等申状」芝大神宮所蔵)。なお、神社には建武四年(一三三七)正月七日に発給された足利直義(ただよし)の御教書(みぎょうしょ)が現存しており、足利氏への祈禱を行っていることから、中世においてすでに大きな勢力を有していたことがわかる。
 それゆえ、天正一八年(一五九〇)に徳川家康が江戸に入国すると、同社は翌年家康から日比谷郷に社領一五石を拝領し、幕府の庇護を受けているのである。その後、慶長年間(一五九六~一六一五)に飯倉から現在地に遷座したというが、これは増上寺が芝に移転したことによるものであろう(本章三節参照)。社領は三代将軍徳川家光のときに浅生(麻布)郷に与えられ、四代将軍徳川家綱のときに代々木村に替地となっている。代々木村には将軍家の産土神(うぶすながみ)である山王権現(一〇〇石)、紀州徳川家の産土神である赤坂氷川社(二〇〇石)の社領もあって、幕府が芝神明宮をいかに重視していたかが推察できよう。また、同社の江戸時代における社格を象徴的に表すものとして、連歌会がある。すなわち、幕府は承応元年(一六五二)から毎年正月一一日に江戸城内で連歌会を行っているが、連歌師の里村家、瀬川家、坂家とともに、連衆として芝神明宮、烏森稲荷社、末広稲荷の神主らが列席するのが慣例だったのである(『武鑑』には毎年記載が見られる)。
 芝神明宮の神主には西東家と小泉家があり、別当に天台宗寛永寺末の金剛院があって、その下に大禰宜鏑木(ねぎかぶらぎ)氏、禰宜の守屋・中原・多田・増尾・為川・河野・田中氏、社地役人の川嶋氏があった。社地は四七九二坪余で、これは徳川家康が入国した直後に拝領したものだという。このうち金剛院・西東家・小泉家がそれぞれ五〇〇坪余を割り当てられていた。なお、同社には飛地として神田三島町(現在の東京都千代田区神田富山町、神田東松下町)に二〇一坪六合六勺の土地があった。これは元来社地の一部だったが、増上寺との境に当たる一部の区画が召し上げられたため、当時元誓願寺(もとせいがんじ)前と呼ばれていた旗本松平造酒之丞(みきのじょう)の屋敷の一部を替地として拝領したものである。この地は拝領町屋敷にあたり、貸地の収入が芝神明宮の経営に組み込まれていた。なお、祭礼や盛り場としての様相は、五章二節四項・同三節四項・同四節二・三項を参照されたい。

表3-4-3-1 愛宕円福寺の子院・末寺
「寺社書上(愛宕下寺社書上)」(国立国会図書館所蔵)をもとに作成