眺望と信仰の名所・愛宕権現社

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 標高約二六メートルの愛宕山にあるのが愛宕権現社で、境内は六八〇五坪余、山上には社殿があり、山の下には別当の円福寺があった。同社も神仏習合の状況下にあり、祭神の愛宕権現の本地仏は勝軍(しょうぐん)地蔵であった。徳川家康は日頃この勝軍地蔵を信仰し、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で勝利したことから、同八年九月に仮の社殿を建てたのが始まりである。同社は京都の愛宕社との直接的な関係性はなく、江戸における火防の守護神として位置付けられた。そして、同一五年には本社・末社をはじめとする堂舎や諸門が完成して、将軍家の祈願所と定められたのである。また、元和三年(一六一七)には社領として豊嶋郡王子村に一〇〇石を拝領し、寛永一三年(一六三六)一一月九日に三代家光から朱印状を得ている。
 別当円福寺は新義真言宗の江戸触頭であるとともに、表3-4-3-1に示したように、五つの子院と一〇の末寺を抱えていた。なかでも末寺は地方にもあって、その勢力をうかがい知ることができよう。

図3-4-3-1 「愛宕社総門」
『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図3-4-3-2 愛宕山権現本社図
『江戸名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 図3-4-3-1は天保五年(一八三四)刊行の『江戸名所図会』の挿絵に描かれた愛宕山下だが、六八段の男坂と九六段からなる女坂があり、正面にある男坂の方が急勾配である。讃岐丸亀藩士曲垣平九郎(まがきへいくろう)が寛永一一年(一六三四)、三代家光の目の前で石段を馬で上り、梅花の枝を折って家光に差し出し賞賛されたという伝説で知られるのは、この男坂である。また、手前には桜川が流れており、総門をくぐった参道の左側に別当の円福寺が、右側には本地堂とその別当の金剛院が描かれている。金剛院の境内には土弓場が描かれており、七軒もあったようである(「寺社書上」)。そして金剛院の右に他の子院が並び、この挿絵には描かれていないが、さらにその右(北隣)には新義真言宗の触頭である真福寺、円福寺の左側には曹洞宗の触頭青松寺があって、この地域が幕府の江戸における宗教政策上重要な地域であったことを示している。
 また、図3-4-3-2は同様に山上を描いたものだが、本殿や仁王門・鐘楼・絵馬堂、そして末社などの存在が確認できる。その他に注目すべきは男坂・女坂に面した崖上や、北側の崖上に水茶屋が描かれている点で、ここには文政一〇年(一八二七)九月時点で山上には一六軒の水茶屋があった(「寺社書上」)。風光明媚な山上は江戸屈指の景観を誇り、参詣者にとって江戸を一望できる見晴茶屋は人気だった。
 なお、安政七年(一八六〇)三月三日早朝に桜田門外で井伊直弼(なおすけ)を襲った水戸藩の浪士たちは、あらかじめここで集結し、愛宕権現社に成功を祈願してから向かったといわれている。そして文久三~元治元年(一八六三~一八六四)に山上から写真家ベアトが撮影したパノラマ写真が知られているが(二章一節コラム参照)、この場所が江戸の中心部のランドマークとしても機能していたことがうかがえるのである。  (滝口正哉)