町なかの宗教者

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 江戸市中には、出家・社人(しゃにん)・修験者(しゅげんじゃ)(山伏(やまぶし))・行人(ぎょうにん)・道心者(どうしんじゃ)・六十六部(ろくじゅうろくぶ)・虚無僧(こむそう)(普化僧(ふけそう))・比丘尼(びくに)・願人(がんにん)・陰陽師(おんみょうじ)・神事舞太夫(しんじまいだゆう)など多様な宗教者がいた。そして江戸では人別把握の観点から、しばしば彼らの存在が問題となっていた。
 このうち、江戸の修験者は①聖護院を本寺とする天台系の本山派修験、②醍醐寺三宝院を本寺とする真言系の当山派修験、③寛永寺を本寺とし、東国三十三か国総鎮守の羽黒山大権現・月山(がっさん)大権現・湯殿山大権現からなる三所権現を祀る天台系の羽黒修験に大別される。
 安永七年(一七七八)四月の町奉行所の調査によれば、九四人の修験者が町なかに居を構えていた。このとき、彼らのうち九一人は、法義については寺社奉行に、人別については町方にと両属する存在であった。
 文政八年(一八二五)から同一二年(一八二九)までの調査内容が記載されている「町方書上」によれば、港区域に相当する地域の町々には、修験や神事舞太夫・陰陽師などのほか、神主や僧も町方に居住し、神仏を祀っている実態が明らかとなる(表3-4-4-1)。
 例えば、桜田備前町(現在の西新橋一丁目)市兵衛店を旅宿としている本光寺の所化(しょけ)(修行僧)周誠は、千束村(現在の東京都台東区千束、浅草ほか)の祖師袈裟掛松の旧跡御松庵の別当で、文政九年(一八二六)四月から勧化(かんげ)のため鬼子母神(きしぼじん)像を持参して滞在していた(「町方書上」)。これなどは、勧化の期間が過ぎれば本光寺に戻るわけであり、実際にはこうした一時的滞在者も少なくなかったのであろう。また、芝新網町(現在の浜松町二丁目、海岸一丁目)には当時宝泉坊葆光(ほうこう)が住んでおり、願人の江戸触頭を務めていた。願人は願人坊主ともいい、本来は祈願者の神仏参拝の代行などをする僧形の者であった。元禄期(一六八八~一七〇四)以降、鞍馬寺の大蔵院と円光院のどちらかに所属し、序列化された組織を持っており、同町は橋本町(現在の東京都千代田区東神田)・下谷山崎町(現在の東京都台東区東上野)・四谷天龍寺門前(現在の東京都新宿区新宿)とともに願人の集住する地域の一つとして知られていた。

表3-4-4-1① 港区域の町人地の稲荷・宗教者
「町方書上」をもとに作成


 こうした状況に変化をもたらしたのが、天保の改革である。すなわち、天保一三年(一八四二)六月二五日の町触では、出家・社人・山伏・神職などの者は町方に住むことができなくなり、ただちに本寺・本社、または同宗・同派の寺社内へ移ることとされた。取り締まりの対象は、当時町方住居を認められていた陰陽師・普化僧・道心者・尼僧・行人・願人・神事舞太夫らにも及び、彼らについても本寺や師家より証文を取り、請人を立てた上で裏店に居住することが義務付けられたのである。町触ではさらに続けて、これまで出家や社人などが行っていた町中での法談・念仏講・題目講などの寄合や、裏店であっても寺院風の造りにしたり、神棚や仏壇を構えて宗教的な行為をしたりすることも禁じた。
 これらの禁止内容は、逆にそれまでの江戸市中での宗教者たちの実態を反映していると考えることができよう。町奉行所では一二月までに町触のごとく改めるようにとしたが、後述のように町方には町内持ちの稲荷などが多く、そこを拠点に生業を立てている社人や修験・行人などは、住まいを引き払うことで路頭に迷う者が続出する可能性があった。彼らは妻帯する者も多かったため、引き取りも容易ではなかったと思われる。この状況は改革の影響が薄れた幕末にはそれまでの状況に戻ったものと思われ、江戸社会の特質として、こうした宗教者が一定の社会的機能をはたしていたと考えられている。
 そこで本項では、こうした宗教者のうち、修験に注目し、本山派・当山派の触頭について、主として「寺社書上」からみていきたい。