本山派修験大乗院

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 赤坂氷川社の別当寺院となっていた大乗院は享保一七年(一七三二)以来、本山派修験の大先達・江戸触頭を務める有力寺院だった。本山派修験とは、天台宗系の修験道の一派で、聖護院を本寺とした。また、触頭とは、寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達するとともに、配下の寺院からの訴願を寺社奉行に取り次ぐ役を担った寺院をいい(本章二節四項参照)、大乗院はいわば本山派修験の江戸出張所のような存在といえる。大乗院の配下には表3-4-4-2のように四五の寺院があって、大きな影響力を持っていたのである(「寺社書上」)。四五院は江戸全域に分布しており、なかでも大宝院から正宝院の九か院は毎年正月六日に年頭御礼として江戸城に登城する格を有していた。
 大乗院は一尺三寸(約三九センチメートル)ほどの木像の不動尊を本尊とし、開山は不明ながら、中興開山は慶長年間(一五九六~一六一五)の①源栄で、以後歴代住職は②実源→③実栄→④実延→⑤実乗→⑥実有→⑦義桓→⑧延澄→⑨義桓(⑦再住)→⑩実寛→⑪実頴と続いた。なお、赤坂氷川社が遷座したのは四代目実延の時代であった。

表3-4-4-2 大乗院配下の江戸寺院
「寺社書上」(「赤坂寺社書上」三)をもとに作成


 大乗院配下に社僧が五か院あり、元文二年(一七三七)一二月以来幕府から神社東側の町人地を拝領し、宝暦五年(一七五五)八月から表通りの一部を町人に一〇年季で貸し付け、その地代収入を運営費用に充てていた。
 五か院とはすなわち、不動尊(ふどうそん)を本尊とし、享保一四年(一七二九)の本社造営時に起立した栄学院・教善院・明王院・福寿院と、勢至菩薩(せいしぼさつ)を本尊とし、寛永年間(一六二四~一六四四)に起立した本覚院である。本覚院だけ由緒が異なるのは、それまで芝新網町(現在の浜松町二丁目、海岸一丁目)の讃岐稲荷の別当を務めていた四代目本覚院保順が大乗院実延の弟子に当たるため、本社造営時に社僧に抜擢されたという経緯による。
 一方、神職にあたる社人は、享保年間(一七一六~一七三六)に大乗院住職実延の実弟斎藤右膳勝延が務めて以来代々子孫が相続し、宝暦八年(一七五八)三月に宅地を拝領し、翌四月から社僧同様に表通りの一部を町人に一〇年季で貸し付け、その地代収入を得ていた。
 なお、赤坂氷川社が幕府から助成として拝領し、大乗院が管理する町人地(拝領町屋敷)は他に五か所あった。その一つが隣接する門前町で、二つ目が木挽町四丁目(現在の東京都中央区銀座五丁目)西北の角地二四〇坪五合の町屋敷である。この二か所は地代収入を祭礼などの運営費用に充当するために拝領していた。
 また、赤坂氷川社が延享三年(一七四六)に境内に護摩堂・弁天堂を造立した際には、地代をその修復料に充てるための町屋敷として、深川富久町(現在の東京都江東区深川一丁目)に二七一坪、本所松坂町二丁目(現在の東京都墨田区両国三丁目)に五六〇坪を拝領した。そして、護摩堂・弁天堂にはそれぞれに堂番の僧を配置したようで、寛政八年(一七九六)以降、その給与分としてさらに幸橋外の二葉町(現在の新橋一丁目 四章二節二項参照)に四四坪の町屋敷を拝領していた。
 このように、赤坂氷川社はその維持についても幕府からかなりの助成を受けていたことがわかる。それとともに当時全体を統括する立場だった別当大乗院の勢力の大きさがうかがえるが、幕末には経営に苦しむ時期があったようである。
 すなわち、大乗院実寛は病状が悪化したため、本所松坂町二丁目の拝領町屋敷に隠居し、幼少の広丸が相続することとなった。これは嘉永三年(一八五〇)頃のことで、当時大乗院は借財を抱えており、経営の立て直しのため、氏子で酒屋を営む小西惣兵衛らの奔走により、同じ宗派の三峰山別当の観音院がその後見役を務めることで一応の落着をみた。その後、広丸は成長して実頴と名乗り、安政六年(一八五九)には一五歳になったが、その後も三峰山の後見体制はしばらく続いたようである(「大乗院実類書状」三峯神社所蔵)。