当山派修験鳳閣寺

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 青山五十人(ごじゅうにん)町(現在の北青山二丁目)にあった鳳閣寺(ほうかくじ)は、醍醐寺三宝院末の当山派修験の惣触頭であり、もとは観応(かんのう)年間(一三五〇~一三五二)に伊豆に創建された吉蔵院に由来する。当初は鎌倉公方足利基氏(もとうじ)の祈願所であったが、永享(えいきょう)の乱(一四三八)で四代目の足利持氏(もちうじ)が自害すると廃寺となり、その後、永禄(えいろく)・元亀(げんき)・天正の頃(一五五八~一五九二)に江戸で再建したのだという。江戸時代に入り、元禄一二年(一六九九)一一月六日に一二世俊尊(しゅんそん)が大和国吉野郡の鳳閣寺の兼務を命じられ、それを機に寺号を鳳閣寺に改めた。そして浜松の白山大別当先達の二諦坊(にたいぼう)康松院も兼務した。
 境内については、延享三年(一七四六)九月二七日に湯島聖堂脇の地に一〇〇〇坪を拝借したが、その後寛政一〇年(一七九八)二月、湯島聖堂再建のため召し上げられ、替地として同年四月一〇日に美濃郡上(みのぐじょう)藩青山家が上地された江戸屋敷(青山五十人町)のうち一〇〇〇坪を拝借し移転している(「寺社書上」)。
 また、文政一〇年(一八二七)閏六月段階では、社務を補佐する代役として、信濃国佐久郡望月観音別当台応院、江戸中橋上槙町於満(おまん)稲荷(現在の東京都中央区日本橋三丁目)社務峯本(みねもと)院、江戸赤坂寺町鈴降稲荷(現在の赤坂五丁目)別当願性院、武蔵国足立郡小室氷川社別当吉祥院(勤役(きんやく)名は金手院)の四名が任じられていた。そして、境内には延享三年(一七四六)一二月に売番屋二か所、享和元年(一八〇一)四月には水茶屋二か所の設置を寺社奉行所から許可されている。
 ところで、鳳閣寺の配下には表3-4-4-3のように一〇九の寺院があって、こちらも江戸全域におよんでいるが、なかでも神田・日本橋・京橋地域に多く、さらには吉原にも配下の寺院があるのが特徴で、江戸では本山派触頭の大乗院よりも大きな影響力を持っていたといえよう(「寺社書上」)。  (滝口正哉)

表3-4-4-3 鳳閣寺配下の江戸寺院
※は古跡寺院。「寺社書上」(「青山寺社書上」壱)をもとに作成。