江戸の稲荷

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 稲荷信仰は、五穀豊穣を司る神として、稲荷神を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・倉稲御魂命(うかのみたまのみこと)・保食神(うけもちのかみ)にあてながら、商売繁盛や火伏(ひぶせ)などにも利益があると認識され、全国各地に浸透している。『山城国風土記』逸文によれば、その始まりは和銅四年(七一一)二月七日の初午(はつうま)に稲荷神が伏見稲荷山三ヶ峰に鎮座したこととされ(これが現在の伏見稲荷大社である)、農耕神的性格が強く語られている。もともとは稲を象徴する神として、「稲成り」や「稲生」という意であったが、のちに稲を荷なう神像の姿が重ねられ「稲荷」と表記されるようになったという。平安時代になると、伏見稲荷は教王護国寺(東寺)の鎮守となり、真言密教の教理や弘法大師信仰と融合しながら民間にも稲荷信仰が流布されていった。こうしたことから、全国に伏見稲荷を勧請した由緒を持つ稲荷が多いが、江戸のような都市部では商売繁盛や病気平癒など個人祈願の対象となり、機能神としても認識されるようになっていった。
 江戸では王子稲荷、妻恋稲荷、三崎稲荷、烏森稲荷社など、単体で社地を有するものも存在するが、境内末社として稲荷が祀られる場合もしばしばあった。また、特筆すべきは『東都歳事記』の「江府はすべて稲荷勧請の社夥(おびただ)しく、武家は屋敷毎に鎮守の社あり。市中には一町に三五社勧請せざる事なし」という記述である。すなわち、具体的な数字でその多さが指摘されたわけではないが、少なくとも近世後期の武家屋敷には屋敷神として敷地の隅に祀られることが多く、町人地では店持の商人が邸内に、また多くの長屋には共同管理の稲荷が祀られていたのである。そしてこれらが一斉に祭礼を行い賑わうのが二月の初午で、稲荷社のなかには講組織で維持管理する場合や、町内の修験が管理している場合もあった。
 実際に近世後期においては、多くの大名・旗本が屋敷内に稲荷を祀っていたことが屋敷図から明らかになっている。表門近くには家臣の長屋があり、母屋裏手の庭の土蔵の奥に稲荷社が祀られているという事例が一般的であった。「藤岡屋日記」によれば、麻布笄橋(こうがいばし)(現在の西麻布四丁目)の大番杉田五郎三郎(『寛政重修諸家譜』によれば、二〇〇俵の大番杉田忠孝)の屋敷内にある杉田稲荷は、寛政八年(一七九六)秋頃、霊験あらたかで諸願成就すること疑いなしという評判で、一般参詣者が押し寄せたという。そのきっかけは、ある身分の高い武家の奥方が病に悩むなか、夢のお告げがあったとして、供の侍を六~七人連れてこの稲荷を訪れ、この稲荷に祈願をしたところ、まもなく全快したという噂が流れたからであった。これなどは、旗本屋敷の鎮守稲荷社が独自の利益(りやく)を創出し、市中に信仰圏を拡大する際に、霊夢による宣伝活動が効果的に作用する場合が少なくなかったことを示している。