単体および寺社境内の稲荷社

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 港区域内の稲荷社には、赤坂寺町の鈴降稲荷(別当は当山派修験願性院、前出)、赤坂御門外の玉川稲荷(別当は羽黒修験観善院、元赤坂一丁目)、麻布桜田町の霞山稲荷(別当は天台宗観明院。現在の櫻田神社、西麻布三丁目)、芝車町の真崎稲荷(別当は本山派修験大宝院、高輪二丁目)などのように、一定の社地を有し、社殿を構える稲荷が散見される。
 これらのうちには、古い由緒を持つものも少なくない。柳森稲荷、椙森(すぎのもり)稲荷と並んで「江戸三森」に数えられる稲荷社に、烏森稲荷社がある。これら三社は共通して中世以前からの由緒があり、烏森稲荷社は天慶年間(九三八~九四七)に藤原秀郷(ひでさと)が将門の乱(九三九~九四〇)鎮圧の際に戦勝祈願として勧請したともいわれ、別当は本山派修験の快長院(かいちょういん)で、神主山田氏は先述の毎年正月一一日に江戸城内で行われる連歌会に連衆として参加していた(「寺社書上」)。
 また、麻布谷町の久国(ひさくに)稲荷(現在の久国神社、六本木二丁目)は寛正六年(一四六五)に江戸城の鎮守として、太田道灌によって溜池の地に祀られ、永禄三年(一五六〇)に麻布谷町に遷座したといわれる。社名は什宝(じゅうほう)の久国銘の太刀に由来しており、別当の覚源院は当山派修験であった。そして麻布永坂町の竹長稲荷(麻布十番一丁目)も弘仁(こうにん)一三年(八二二)に創建された由緒を持ち、本山派修験の龍王院が別当を務めていた。地元の町々のほかに、戸田家、大岡家、天野家など周辺に屋敷を構える旗本一〇家も氏子となっていた(「寺社書上」)。
 これら単体の稲荷社のうち、神主を置いているところは、前述の烏森稲荷社の他に芝切通坂上幸稲荷社(神主長岡主膳、芝公園三丁目)や麻布白金御殿跡富士見稲荷(神主斎藤山城、南麻布四丁目)などごくわずかで、別当寺院の管轄下にある場合が大半だった。その場合、修験が別当を務めることが多く、前述の町方での修験のあり方との関連性がうかがえる。
 一方、寺社の境内にも末社として稲荷社の存在を確認できる場合も多く、例えば江戸時代の芝神明宮では、末社に春日社、熊野社、祇園社、天満宮、弁天社などとともに、三島稲荷、宝禄稲荷、柴井稲荷、宇田川稲荷、小白稲荷、福寿稲荷があった(「寺社書上」)。また、赤坂氷川社境内には喜三郎稲荷と称する三尺(〇・九メートル)四方の祠があって、これは文化五年(一八〇八)に氷川社僧屋敷に住む喜三郎という者が心願のため勧請したものであった。この事例のように、境内の稲荷社には、氏子の者が勧請する場合もしばしばあったのである。