町方の稲荷社

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 前述の表3-4-4-1にも示したように、町方には地域の偏りなく多くの稲荷社が存在していた。例えば、西行(さいぎょう)稲荷は赤坂田町四丁目(現在の赤坂三丁目)の自身番屋の後ろの明地に古くから鎮座していたといい、本社・拝殿・向拝を構え、同五丁目と共同管理であった。その由緒は、田町五丁目(現在の赤坂二丁目)に西行五兵衛という者が住んでいて、ある日、榎坂を通行中、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の三寸(九センチメートル)程の鉄の像を拾い、御神体として安置したのに由来するという。御神体は後に紛失し、代わりに錦の布に包まれた長さ六寸(一八センチメートル)、幅二寸(六センチメートル)ほどの木箱を祀るようになった。また西行稲荷にはあるときから愛宕権現と秋葉権現の札を合わせて祀っていたところ、文化八年(一八一一)二月の大火で付近が類焼した際、同社は無事に焼け残ったことから、以後、愛宕・秋葉を合殿に祀るようになったという(「町方書上」)。
 このように特定の由緒をもち、名称が付されている場合も多く、なかには伏見稲荷などから勧請し、「正一位」の位階を得ているものもみられた。そして、他の神仏と相殿の場合もしばしばみられ、町方でも神仏混淆の状況が進行している様子がわかる。
 これらの傾向は、江戸全体における稲荷の傾向に合致するものと考えられる。江戸における稲荷信仰においては、日常的な祈願・願掛けや、初午などの年中行事の対象となり、ときには修験などの宗教者が住みついて祈祷などを行うといった多様な展開をもたらす町方の稲荷社の果たした役割の大きさを再認識する必要があるといえよう。  (滝口正哉)