江戸時代中期の抑制的意匠

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 江戸時代中期、一八世紀の寺社建築の充実も港区の大きな特色である。まず一八世紀初頭に造営された建築群を見ると、一七世紀の壮麗な表現を引き続きとどめていることがわかる。現存する建物はやはり増上寺境内に現存する霊廟建築であり、宝永二年(一七〇五)の清揚院(三代将軍徳川家光三男・甲府宰相綱重)水盤舎(図3-5-1-4)、正徳三年(一七一三)の文昭院(六代将軍徳川家宣(いえのぶ))奥院中門(図3-5-1-5)、享保二年(一七一七)の有章院(七代将軍徳川家継)霊廟二天門(図3-5-1-6)である。細部の極彩色、文昭院奥院中門で見られる銅を鋳抜いて作られた精緻な浮彫などの装飾表現が特徴である。一方で、有章院二天門を台徳院霊廟惣門と見比べてみると、入母屋造平入の簡素な屋根形状で、江戸時代前期の壮麗な表現が次第に抑制へ向かうことをうかがわせる。

図3-5-1-4 清揚院水盤舎

図3-5-1-5 文昭院奥院中門

図3-5-1-6 有章院霊廟二天門


 こうした江戸時代中期の装飾表現の抑制を物語る典型が、八代将軍である徳川吉宗が享保一五年(一七三〇)に造営した赤坂氷川社社殿である(図3-5-1-7 赤坂氷川社については本章四節二項参照)。八代吉宗は元赤坂に屋敷を構えた紀州藩の出身であり、当社を産土神(うぶすながみ)(生まれた土地の守り神)として崇敬していた。有章院霊廟を最後として、江戸時代前期の豪華絢爛な建築群を複合化した霊廟を造営せず、縮小化したのも、質素倹約で知られる八代吉宗であった。赤坂氷川社社殿はこうした享保年間(一七一六~一七三六)、八代吉宗の時代を良く体現する建築である。

図3-5-1-7 赤坂氷川社社殿の拝殿正面


 社殿は権現造りの形式で、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の本殿と、幣殿(へいでん)、拝殿からなる。拝殿は入母屋造瓦棒銅板葺(いりもやづくりかわらぼうどうばんぶき)、軒唐破風(のきからはふ)の向拝(こうはい)を設けたものである。向拝を見ると、柱の上部は大斗肘木(だいとひじき)、水引虹梁(みずひきこうりょう)には装飾性を抑制した簡明な渦紋と若葉紋を刻む。加えて、側廻りは舟肘木のみの構成である。総じて、簡素さの志向をうかがわせる。その一方で、向拝柱(こうはいばしら)の大斗上に載る肘木は成(せい)(下端から上端までの垂直距離)の高い雲形の珍しい特徴的な繰形を持ち、複雑さはないが立体的かつ重厚な迫力を持つ。簡素さのなかのこうした建築表現に、江戸時代前期の華麗な装飾表現が、中期になると、より重厚な表現に移行していく様子をうかがい知ることができる(図3-5-1-8)。

図3-5-1-8 赤坂氷川社拝殿の水引虹梁とその上部の雲形の肘木


 さて、中小の寺院が連なり都市景観を作る寺町が点在する点も、港区の特徴である。寺町に現存する寺社建築の多くは、頻出する都市大火の影響から、江戸時代後期や明治時代以降に建てられたもので占められている。しかしながら、江戸時代中期になると、幕府の公儀普請とは異なり、寺町に所在する寺院建築の現存例も出てくる。高輪二本榎通りの寺町に所在する日蓮宗の承教寺(じょうきょうじ)が、江戸時代中期の境内の雰囲気を知る好例である。本寺は日蓮宗本門寺派の触頭で(本章二節四項参照)、肥前大村藩大村家の江戸における菩提寺でもあった。
 二本榎通りに面して山門が立地し、その奥に仁王門、本堂が軸線上に配置される。本堂右手に客殿が接続し、本堂左手に鐘楼が建つ(図3-5-1-9、図3-5-1-10)。このうち、江戸時代の建築と考えられるのは山門、仁王門、鐘楼である。仁王門は三間一戸の八脚門で、朱塗りが施される。入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんがわらぶき)二軒で疎垂木(まばらたるき)である。細部を見ると、仁王門は組物を大斗絵様肘木(だいとえようひじき)とし、持送(もちおくり)の繰形(くりかた)を見ても、一八世紀前期の時代様式を示す。鐘楼は入母屋造銅板葺、内部に格天井(ごうてんじょう)を組む。頭貫(かしらぬき)上に台輪(だいわ)を設けて、三斗組とし、中備の蟇股(かえるまた)の枠内には軍配の彫刻を施す(図3-5-1-11)。木鼻や頭貫の絵様、また実肘木の付く蟇股の彫刻は彫線が太く力強い表現で、仁王門より若干新しく、一八世紀中期の様式を示す。この仁王門と鐘楼のいずれも、優美な意匠が江戸中期に力強い重厚感が重視されていく傾向をよく体現している。本堂は装飾化が進展する一九世紀の建築と考えられるが、江戸時代中期の山門、仁王門と鐘楼が点在し、境内の風致を作る希少な寺院である。

図3-5-1-9 承教寺仁王門

図3-5-1-10 承教寺鐘楼と本堂

図3-5-1-11 承教寺鐘楼の軍配の彫刻が施された墓股