江戸時代後期の寺社建築の最も顕著な特色は、細部装飾の進展といえる。それは信仰の基盤であった庶民の経済力の向上と連動し、建築の外観を庶民に向けてわかりやすく、具象的な彫刻で散りばめる方法が進んでいくからである。特に一九世紀中期の幕末に向かって、その傾向は大きく強まる。その細部装飾の進展を物語る代表例として白金台の覚林寺の清正公堂を挙げることができる。
清正公堂(口絵12、図3-5-1-12)は加藤清正(一五六二~一六一一)を祀るため、慶応元年(一八六五)に再建されたものである(棟札)。本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りの平面形式で、本殿を土蔵造とする。なお、本殿は明治時代の再建による。注目されるのは、拝殿の外観を覆う過剰なまでの豪華な装飾である(図3-5-1-13)。入母屋造平入、向拝部分を軒唐破風として、正面にさらに千鳥破風(ちどりはふ)を重ねる。禅宗様尾垂木(おだるき)付の三手先組物(みてさきくみもの)で、二軒の扇垂木(おうぎたるき)とする。向拝の木鼻(きばな)、水引虹梁(みずひきこうりょう)、持送(もちおくり)、蟇股には波間に龍や亀などの彫刻が緻密に満たされ、内部も地紋彫が壁面を埋めつくす。江戸時代前期に見られたような華麗な屋根の形状や装飾性が、今度は庶民に向けて、江戸時代後期に復権していく様子をうかがうことができよう。
図3-5-1-12 軒唐破風と千鳥破風の屋根を重ねる覚林寺清正公堂の拝殿正面
図3-5-1-13 覚林寺清正公堂の拝殿向拝を埋めつくす龍や亀などの建築彫刻
江戸時代後期の現存建築に見られる特色として、耐火建築の普及も挙げることができる。先述した清正公堂は明治期の造営ではあるが、本堂を土蔵造りとして、延焼防止に配慮した形式であった。江戸時代の耐火建築を伝えるものに、龍原寺(りゅうげんじ)本堂(三田)や明王院本堂(三田)がある。いずれも耐火という機能性を重視しているものの、その向拝や内部には、左官による具象彫刻が施されることも特徴である。弘化三年(一八四六)の龍原寺本堂(図3-5-1-14)では、向拝に鶴の漆喰(しっくい)彫刻が施され(図3-5-1-15)、文化一二年(一八一五)の明王院本堂も後述するように、その戸前に昇り龍と降り龍の鏝(こて)細工を持つ。土蔵造りでありながら、華やかな意匠性を併せ持つ。こうした土蔵造りの寺院建築が見られる点も、都市大火が頻出していた近世の港区域の特色を物語る。
図3-5-1-14 龍原寺本堂の全景
図3-5-1-15 龍原寺本堂向拝の漆喰彫刻
以上のように現存する寺社建築を概観すれば、幅広い時代性や寺院の空間形成の違い、様々な宗派など、いずれもその多様性にこそ港区の地域的特色が見いだせるのかもしれない。その一方、港区内の寺社建築は造形的な視点にとどまらず、それを生み出す社会的背景からもその特色を読み取ることができる。次項からそうした視点で、個別の寺社を見ていきたい。具体的には、武家の庇護を受けた寺院や庶民信仰に支えられた寺社という武家と町人が入り混じる港区域ならではの特性に着目していく。
(中村琢巳)