第二項 武家の庇護を受けた実相寺

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 武家の庇護を受けた寺院建築の好例として、三田寺町に現存する実相寺本堂を取り上げたい。三田寺町は港区南部に所在し、三田四丁目を占める区域で、桜田通りより南西側、聖坂から三田台通りの両側、魚籃坂(ぎょらんざか)より東側に囲まれた区域である(口絵8)。この寺町の内側に入れば、寺院の門や塀が連続し、奥に位置する本堂の瓦屋根の景観が連続する。この地域内で実に五六棟の歴史的建造物が集積しているのである(港区教育委員会編 二〇〇六)。増上寺境内地区のような大規模寺院街と異なる、中小の寺院からなる寺町の典型的な景観を今に伝えている。
 この寺町の成立は、寛永一二年から一三年の江戸城拡張に伴う武家地の整備によって、それまで桜田・八丁堀に所在していた寺院の一部が当地へ替地されたものが多い。弘化三年の「御府内場末往還其外沿革図書」を見れば、三田寺町に四九寺の境内が確認される。また宗派は、浄土宗、真宗、日蓮宗、真言宗、曹洞宗など多岐にわたることも特徴である。さらに、信仰の基盤も大名家の菩提寺であるもの、庶民信仰の札所に数えられるものなど、多岐にわたる。
 さて、この三田寺町のなかで取り上げるのが、聖坂と幽霊坂に面した浄土宗の寺院・実相寺である。本寺は会津藩松平家の江戸での菩提寺の一つであった(大名家の菩提寺については、本章二節コラム参照)。「諸宗作事図帳」に収録された境内図を見ると、「肥後守殿墓所」、すなわち会津家墓所が本堂東側の一角に描かれる(図3-5-2-1)。そして現在も、その一角には会津藩関係の墓石が位置している。また本堂後方の位牌所には松平家位牌が安置されている。

図3-5-2-1 実相寺
「諸宗作事図帳」国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 境内の奥まった位置に本堂を構える。本堂は南東側に正面を向け、左手に庫裡が接続する。本堂の規模は間口七間(一二・六メートル)、奥行七間で寄棟造り桟瓦葺(さんがわらぶき)である。文化年間(一八〇四~一八一八)の年紀が記された棟札が修理工事でみつかったという。実際、内部の虹梁(こうりょう)の絵様彫刻を見れば、渦紋の分岐点に玉と葉があしらわれるなど、一九世紀前期の時代的特色を帯びる。平面は前方の三間を外陣、その奥を内陣としており、内陣が大きく占めることが特色である。内陣の奥に来迎柱二本を立て、須弥壇(しゅみだん)をつくり、本尊の阿弥陀如来を安置する。以前は後方に位牌所が設けられていたが、現在は改築されている。左手に各八畳の広さの続き座敷が設けられ、庭に面して縁側をまわす。
 本建物で注目されるのが、内陣の須弥壇まわりと内外陣の境界に凝らされた意匠である(図3-5-2-2)。来迎柱(らいごうばしら)の上部には台輪がのり、実肘木(さねひじき)付きの出組形式で組物がのる。来迎柱の頭貫(かしらぬき)の端部に繰形(くりかた)が施されて正面に突き出す。これらの部材には繧繝(うんげん)彩色が施され、さらに繋梁(つなぎばり)と頭貫の間にはめられた板壁にも、雲に舞う天女が彩色される。頭貫には会津藩松平家の三葉葵紋が描かれる。さらに組物の左右の小壁も雲形の彩色で埋められ、天井桁には唐草文様が描かれる。

図3-5-2-2 彩色が華やかな実相寺本堂の内陣


 これに加えて、内外陣の境界における装飾性にも着目できる。左右の間口二間および中央間の間口三間それぞれ中央に束を立て、二面ずつの彫刻欄間をはめる。これらの彫刻欄間にも彩色を施す。中央間の二面は、龍が波を潜り抜ける構図とした透かし彫り彫刻である。左右の脇間ではそれぞれ四天が邪鬼と対峙した構図で、四天が欄間の枠から迫り出す丸彫りの彫刻として対比を生み出している(図3-5-2-3)。

図3-5-2-3 実相寺本堂平面図


 実相寺本堂の外観は、向拝に彫刻要素は見られず、桟瓦葺を葺きおろしただけの簡素な意匠でまとめられている。それに対して、その内部は彫刻欄間(らんま)や内陣彩色を見れば、きわめて荘厳さを意識して作られている。三田寺町の現存する本堂建築のなかで、こうした彩色や丸彫り彫刻を駆使した内観は本寺のほかにあまり見られない。各所に見られた三葉葵紋から考えても、大名家の菩提寺として、会津藩の庇護により造営が行われたためと考えられよう。庶民信仰の寺院として向拝や外観を彫刻的に凝らす寺院本堂と異なり、外観は質素ながら、内観に荘厳を凝らす内向的な建築的特色が生み出されたのである。  (中村琢巳)