第三項 庶民信仰を伝える明王院本堂の天井画

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 町人地と武家地が混在する港区域内では、寺院の信仰基盤もまた、武家と町人が混在する様相を見せる。前項までは武家の信仰や庇護を受けた寺院の建築的特色をみてきた。本項ではそれに対して、庶民信仰により支えられた寺社の空間をみていきたい。こうした視点に基づき、江戸時代の寺院建築が群として町並みをとどめる三田寺町に所在する明王院(みょうおういん)に焦点を当てる。
 明王院は三田中寺町通りの中央付近、北側に境内を構える真義真言宗の寺院である(口絵8)。江戸時代には御府内八十八ヵ所霊場の第八十四番札所で、その本堂には弘法大師作と伝えられる厄除大師が祀られている。境内には「伊豫(いよ)」「讃岐」「阿波」「土佐」を刻む四国の砂塚写しが所在し、札所巡りの参詣を物語る。
 さて、明王院本堂は境内の奥に南東を向くように位置する。内陣を土蔵造りとして、その前方に入母屋造り平入、桟瓦葺の外陣がたち、正面に向拝を葺きおろす。外陣の小屋組から文化一二年(一八一五)の「本堂造立」棟札(むなふだ)がみつかっている。大工棟梁は「京橋因幡町(いなばちょう)・数井喜太郎良安」である。外陣向拝の水引虹梁(みずひきこうりょう)に刻まれた絵様を見れば、渦紋と若葉紋の分岐点に花をあしらう発達した細部装飾であり、一九世紀前期の様式に符合する。また後述する天井画寄進者の年代とも、文化一二年造営は矛盾しない。よって、棟札が示す文化一二年が、まさに現存する外陣の建築年代としてよいだろう。
 土蔵造りの内陣は間口二間半(四・五メートル)、奥行三間(五・四メートル)の規模である。その正面、すなわち外陣と内陣境には建具を入れず開放とする。しかしながら中央に一本溝が残り、かつては内陣・外陣を区切る格子がはめこまれていたと推察される。戸前正面の両脇には、半間の壁に鏝(こて)細工がはめこまれている。右手が登り龍、左手が降り龍の一対である(図3-5-3-1)。

図3-5-3-1 明王院本堂の内観

図3-5-3-2 明王院本堂の外陣天井画


 さて、本項で注目したいのは、外陣の天井の格間(ごうま)にはられた板絵の天井画である(図3-5-3-2)。間口五間、奥行三間の規模を持つ外陣の天井いっぱいに、二四〇枚の板絵がはめられる。その画題は多彩で、松・鶴・亀・兎・花鳥・千鳥・鳥獣・扇子・宝船・家紋などが見られる。画面の構成は、正方形の板の中に、墨で円を描き、枠内に彩色を施すものがほとんどである。その枠外に、板絵の寄進者の名や屋号、居所が記される。外陣の建築構成はこの天井画を一望にできるように内側に柱をたてず、また虹梁(こうりょう)も架けない。すなわち、これら天井画を重要視して本堂建築が一体的につくられている。この二四〇枚の板絵の寄進者については、池田佳樹が次のように丹念な分析を行っている。
 それによれば、寄進者の居所の分析で、「有馬様御内」「青木様御内」「久留米藩」「麻田藩」「土州分藩」「青木源五郎藩」「阿州」「土州」「薩州」「細川様御内」といった記載を武家、その他を町人として分類すると、判明した一四三人のうち武家は七三名(五一パーセント)、町人は六〇名(四二パーセント)だという。なお、青木源五郎は摂津麻田藩(一万二千石)十代藩主青木一貞の別名であり、その在任期間は天明六年(一七八六)から文政四年(一八二一)であって、外陣造営の文化一二年(一八一五)の時期とも符合する。さらに、寄進者の居所分布の統計では(武家を国元でなく江戸屋敷として分類)、「芝」「三田」と近辺が二九名(二〇パーセント)、「京橋」「南八丁堀」「芝金杉」「西久保」「麻布」「飯倉」「高輪」「赤坂」が四三名(三〇パーセント)、「北八丁堀」「神田」「青山」「四ツ谷」「市ヶ谷」「浅草」「上野」が一七名(一二パーセント)、府外が八名(六パーセント)であった(港区教育委員会編 二〇〇九)。
 こうして天井画の寄進者を一覧的に見れば、寄進者の居所は近辺地域が多い傾向が読み取れる。これとともに、町人と武家の双方にまたがり信仰の基盤が成立していたことも読み取れる。札所巡りの寺院という、一見、庶民信仰を基盤として装飾的な空間を作り上げている明王院であるが、そこにはまた、武家の信仰も確認できるのであった。こうした町人と武家の双方が織り交ざる信仰基盤による寺院の空間が、港区域内の地域的特色と見ることもできるだろう。  (中村琢巳)