第四項 金刀比羅宮の銅鳥居に見る武家と町人

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 町人と武家の信仰という視点で、虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)に現存する銅鳥居(図3-5-4-1)もまた、近世の寺社を支えた社会を物語る好例である。金刀比羅宮は虎ノ門外に所在し、讃岐丸亀藩京極家の邸内社であった。現在も高層ビル群のなかにあって、伝統的な社殿と鳥居を伝えている。社殿は戦災による焼失によって、拝殿および幣殿(へいでん)は昭和二六年(一九五一)に再建されたものである。その設計施工は松井建設が担当し、建築史家の伊東忠太が設計校閲を行った。奥の本殿は昭和五八年(一九八三)に復興されている。その社殿前方の参道上に銅鳥居が位置する(図3-5-4-2)。

図3-5-4-1 金刀比羅宮の銅鳥居と社殿

図3-5-4-2 金刀比羅宮の銅鳥居


 鳥居の背面上部に「文政四辛巳歳十月吉祥日」と切銘があり、文政四年(一八二一)に奉納されたことがわかる。左右の柱上部に四神の彫刻を付す。注目されるのは藁座(わらざ)(鳥居の根本に巻き付けた木)いっぱいに刻まれた寄進者、造営の職人、願主、世話人の名や居所である。
 寄進者のうち、「願主」は桜田久保町(現在の西新橋一丁目)・伊勢屋喜兵衛、芝口三町目(現在の新橋二~三丁目、東新橋一丁目)・伊勢屋由右衛門、新吉原京町一丁目(現在の東京都台東区千束)・若松屋藤右衛門の三名であった。新吉原の若松屋ほかは、この近辺の町人が願主となっている。次に「世話人」として八名が刻まれている。その居所を見ると、桜田善右衛門町(現在の西新橋一丁目)、桜田久保町、芝土橋魚店、新橋山王町、桜田備前町(現在の西新橋一丁目、新橋一丁目)、麴町七丁目(現在の東京都千代田区麴町)と、これも近辺の町人が占めている。
 銘文には建設に携わった職人が刻まれる。まず請負人として江戸大門通角・伊勢屋長兵衛が、このほか「鋳工」「四神」「彫工」の名が連なる。さらに、「根石一式寄進」として二番組の七組、「地形建方寄進」として「桜田八ヶ町鳶中」三名の鳶(とび)の名が刻まれる。
 この寄進者たちの分析は岩淵令治が行っており(岩淵 二〇〇三)、町人の職業や居所の全貌が明らかにされている。三田寺町の明王院天井画と同様に、信仰を支えた人々の具体像を読み取ることができる。それによれば、武士が二名見られて、少数ではあるが、近辺に屋敷のある他藩の藩士も金刀比羅社の寄進に加わっていたこと、残る寄進者は個人の商人・職人であって、普請関係(三項目)、武士二名、仲間集団による寄進、居所不明の個人四名を除いた二八六名のうち、居所の傾向としては、丸亀藩江戸屋敷に隣接した芝地域の七三名(二五パーセント)が最多で、特に桜田八か町に三七名と突出している傾向が指摘されている。また屋敷に近い京橋地域も四二名(一五パーセント)で、芝に隣接した麴町、赤坂、西久保、そして品川といった江戸城の南側の地域で全体の六割に達する状況が示されている。造営の寄進が、近隣地域の商人を中心としている傾向は、先に見た三田寺町の天井画寄進者の傾向に類似したものである。
 大名家の邸内社でありながら、このように町人の寄進が多く占めたのは、江戸時代後期における時代性と関わる。岩淵によれば、特に文化文政期以降、普段は閉ざされた空間である武家屋敷を開き、神仏公開をはかる武家屋敷が増えてくるという。久留米藩有馬家上屋敷の水天宮(二章一節参照)と並んで、その筆頭となるのが金刀比羅宮であった。こうした武家屋敷の邸内社の公開を通して、邸内社でありながら地域の庶民信仰を受け、造営もそうした庶民組織に支えられて行われた。
 明王院天井画と金刀比羅宮の銅鳥居という二つの事例を見たが、双方ともに武家と町人が造営の寄進に参加するとともに、こうした造営が近隣地域の町人を中心として進められた傾向が共通する。ここでも武家地と町人地、寺社が入り混じる港区域の特性が現れる。武家の寺社であれ、町人の寺社であれ、こうした信仰は身分により分断されたものではなく、地域を基盤として、武家と町人双方にまたがる広がりを持っていたのである。 (中村琢巳)