考古学で見る寺院境内の空間

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 本節はまず、墓域空間・非墓域空間の両者が一体で調査が行われた増上寺子院群‐源興院跡、上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡を例にして、寺院境内の空間構成を見ることから始めたい。
 増上寺子院群‐源興院跡遺跡は、芝公園一丁目八番にある。遺跡周辺は、江戸時代には増上寺境内に当たり、源興院を含め多くの子院が甍(いらか)を接していた。遺跡としては源興院跡のほか、光学院・貞松院(ていしょういん)跡、華陽院跡、徳水院跡、常照院跡、池徳院・花岳院跡、福聚院跡の七か所が発見されている。
 子院はもともと、第一線を退いた高僧が、弟子と共に修練を行い、あるいは余生を過ごす場として設けられたものであるが、増上寺の子院は、浄土宗の他の寺院と異なり、御霊屋の勤仕(きんじ)や増上寺で法事が行われる際の宿坊など、徳川将軍家菩提寺の子院として諸々の重要な役割が与えられていた(本章三節参照)。最終的には三〇の子院が設けられ、うち一三か院は増上寺が現在地に移された時点で子院となっていた。源興院は秀白(しゅうはく)(立誉(りつよ))を開山上人とする。起立年代は明らかではないが、秀白の入寂(死去)が承応三年(一六五四)であることから、それ以前と考えられている。先述の一三か院には含まれていない。
 江戸時代、境内は南北方向に長い矩形であった。増上寺所蔵の「縁山山内図」をみると、境内の南北二か所に門が描かれ、南の増上寺参道に面する門が表門であった。墓域は表門から見て奥、敷地北域の三分の一程の範囲に造営され、南側の敷地約三分の二は非墓域であったとみられる。この点は発掘調査によってもおおむね確認されているが、調査が旧境内南側の約三分の一の範囲にはおよんでいないため、増上寺参道側の様子は不明である。発掘調査の対象となった遺跡範囲は、南北およそ二八メートル、東西およそ二八・九メートルのL字形である。検出遺構は、二五九基の埋葬施設の他、墓道、建物基礎、水道施設、ごみ穴など様々で、一七世紀前葉から一九世紀に至るまでの六時期に区分されている。各期の様子を追ってみよう。
 一七世紀前葉(Ⅰ期)の頃は遺構が少なく、一三基の埋葬施設、木材を廃棄した土坑一基、境内を区画するために構築されたと考えられる木列二基が検出されている(図3-6-1-1a)。
 次の一七世紀中葉(Ⅱ期)については、六三基の埋葬施設のみが確実にこの時期に属すると判断されたが、他に木材を廃棄した土坑二基がこの時期の可能性があると考えられている(図3-6-1-1a)。
 一七世紀後葉(Ⅲ期)では、埋葬施設の他に、墓道と考えられる遺構、木材を廃棄した土坑一基、上水木樋が検出されている。埋葬施設の数は減るが、Ⅰ・Ⅱ期には見られなかった甕棺墓(かめかんぼ)、火葬蔵骨器(焼骨壷)が出現する。しかも、墓域西部では円形木棺(早桶(はやおけ))墓が集中し、墓域中央では円形木棺墓が列状に並び、墓域の東部は火葬蔵骨器群が形成されるといった具合に、棺種によって分布状況が異なることが確認されている。墓道状の遺構は破砕礫を帯状に敷いたもので、埋葬施設の列と合致している(図3-6-1-1b)。
 一八世紀前半(Ⅳ期)になると、埋葬施設が一二基に減少し円形木棺墓のみとなる。また、墓域・非墓域空間の境界付近に土蔵(二号建物基礎。以下配置図参照)、その南方に竹樋が接続された掘り抜きの井戸(二号井戸)が作られたとみられる。二号建物基礎と二号井戸の周辺には下水溝が掘られ、境内の利用の在り方に変化が生じた可能性がある。墓域空間にごみ穴が掘られていることも、その現れであろう(図3-6-1-1c)。
 ところで、宝永火山灰が主にⅢ期に整備された墓道状遺構の直上で検出された(一章三節コラムB参照)。これは、降灰時、埋葬施設の上に墓塔などの地上施設が存在していたことを示している。隣地では火山灰を掃き溜めた土坑も検出されており、江戸市中に降り積もった火山灰が当時の人びとにとっては大層な厄介ものであったことを物語っている。
 最後に、一八世紀後半(Ⅴ期)・一九世紀(Ⅵ期)の様子を合わせて見てみよう(図3-6-1-1d)。源興院ではⅣ期からⅤ期へ移る過程で大きな動きがあった。墓域の縮小もしくは消滅である。埋葬施設の減少は一七世紀後葉 (Ⅲ期)には始まっていた。一八世紀後半(Ⅴ期)になると、火葬蔵骨器群が形成されていた可能性はあるものの、円形木棺墓他の土葬墓は営まれなくなる。かつて、墓域空間であった境内北西角近くには土蔵(三号建物基礎)が建てられた。降って一九世紀に入ると先述の土蔵は取り払われるが、境内北東角近くに新たに土蔵(一号建物基礎)が設けられている。ここも以前は墓域空間であった(港区芝公園一丁目遺跡調査団編 一九八八)。

図3-6-1-1 増上寺子院群-源興院跡遺跡の遺構分布の変遷
港区芝公園一丁目遺跡調査団編『芝公園一丁目 増上寺子院群 光学院・貞松院跡 源興院跡-港区役所新庁舎建設に伴う発掘調査報告書』(1988)から転載 一部改変


 今日、源興院の境内は江戸時代に比べてだいぶ狭められ、墓所はやや離れた場所にある。この墓所の新設は、恐らく一八世紀前半から後半にかけてのことであろう。墓所移転・新設の背景は明確ではないが、埋葬対象者の増加、一七世紀末葉から一八世紀前葉にかけて相次いだ自然災害の影響、子院としての機能の変化に伴う建物の拡幅などが考えられる。
 次に、高輪一丁目にある上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡を見てみよう。上行寺は、山号を冨士山と称し、永禄一〇年(一五六七)に小田原に創建された日蓮宗寺院である。慶長元年(一五九六)に江戸に移り、三度の移転の後、寛文八年(一六六八)高輪二本榎(現在の高輪一~三丁目)に落ち着いた。その後、昭和三七年(一九六二)に神奈川県伊勢原市に移転している。
 調査面積は約五〇〇〇平方メートルで、寺院建物跡、埋葬施設、参道跡、ごみ穴、地下室など六〇〇基に近い遺構が検出され、境内整備と建物造立に伴う台地斜面の造成、台地下の低地部の埋め立てと墓地造営の様子が確認されている (図3-6-1-2)。これらの遺構や造成痕などは、焼土層と史料に見られる火災記録との対比等によって七期に区分された。

図3-6-1-2 上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡 遺構全体図
港区教育委員会・盤古堂編『上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡発掘調査報告書』(長谷工コーポレーション、2006)から転載 一部加筆


 第一期は上行寺移転前に相当し、寛文八年を下限とする。調査でこの時期の埋葬施設が検出されており、上行寺以前に寺院が存在していた可能性が高い。第二期は寛文八年から元禄一五年(一七〇二)の火災まで、第三期は一八世紀前半から延享二年(一七四五)の火災まで、第四期は一八世紀後半から弘化二年(一八四五)の火災まで、第五期は一九世紀後半から幕末・明治初期まで、第六期は明治一〇年(一八七七)頃から同三六年、第七期は明治三九年からこの地を離れる昭和三七年までである。
 台地斜面および低地部の埋め立ては、第一期から第四期にかけて段階的に行われ、最も厚い箇所では四メートル近い盛土がなされたとみられる。ただし、台地斜面全体が積極的に利用されることはなく、遺構が空白もしくは極めて希薄な空間が広がっている。
 上行寺の墓域は、台地上の境内北東部(北東部墓域)と境内北西の低地(低地部墓域)の二か所に設けられた。甕棺(かめかん)の年代観により低地部墓域では一七世紀末葉から埋葬施設の構築が始まり、同様に北東部墓域では一九世紀前半に至り墓が作られるようになったとみられている。また、調査時の住職の談話によれば、いずれの墓域も昭和三七年の移転まで使用されていた。
 庫裡・客殿等の主要な寺院建物は、境内中央よりやや南の台地斜面の上部縁辺から斜面造成地に建てられている。それより東に参道が向かい、二本榎通りに面した表門に至る。主要な寺院建物が存在したとみられる調査区では、上述の第四期から第七期に相当する礎石建物跡が検出され、それぞれの時期の図面とおおむね合致する(港区教育委員会・盤古堂編 二〇〇六)。
 源興院にしても上行寺の場合も、主要な寺院建物は時期を違えず、ほぼ同じ場所で建て直しや増改築が繰り返された。ただし、境内が狭隘(きょうあい)であった源興院では、一八世紀後半になると建物の拡張のために墓地を他所に移転する必要が生じた。一方、上行寺でも一九世紀前半に墓地の新規造成が行われているが、墓域が極端に拡大されることはなかった。上行寺には六代将軍徳川家宣の娘の廟所があり、その生母が摂関家である近衛基熈(このえもとひろ)の娘で、かつ近衛家の江戸での祈禱所であった。こうしたことが江戸時代の上行寺に一定の格式を保たせる要因となり、空間構成に反映した可能性もある。    (髙山優)