本章三節に詳述されているように、徳川将軍家の菩提寺となった増上寺には、二代・六代・七代・九代・一二代・一四代の六名の将軍と、その正室側室および子女三二名の墓が造営された。うち、二代将軍徳川秀忠(台徳院)の墓は、本堂の南側に秀忠室崇源院(すうげんいん)の霊牌所とともに霊廟として整備され、同様に六代将軍徳川家宣(文昭院)・七代将軍徳川家継(有章院)廟が本堂の北側に造営されている。前者を南廟、後者を北廟と呼ぶ所以(ゆえん)である(図3-6-2-1)。
図3-6-2-1 増上寺徳川将軍家の墓所配置図
鈴木尚『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1985)から転載 一部加筆
昭和三三年(一九五八)、増上寺徳川将軍家墓所が改葬されることになり、併せて調査が行われることになった。改葬工事は南廟から着手され、同年七月一七日、南廟に相当する区画の地下三メートルの位置で、堅く突き固められた砂利層が検出された。翌日、秀忠(台徳院)廟もしくは綱重(清揚院)廟のいずれかの現状保存について申し入れを行っていた増上寺から、改葬工事の一時中止の申し出があり、工事は暫(しばら)く中断した。しかし、増上寺のこの申し入れが実現することなく、八月二日に改葬工事と調査が再開し、同月の七日に秀忠墓の石室の蓋石が現れた。以降、昭和三五年一月に一三代将軍徳川家定室天親院墓の調査が終わるまで断続的に続けられ、調査終了から七年を経た昭和四二年、成果が六〇〇ページに近い大部の報告書(鈴木ほか 一九六七)としてまとめられた。調査者の一人で考古学を担当した矢島恭介(明治大学講師、当時)は、「工事関係者の好意によって調査に便宜がはかられるという性質」の事業であったと述べている(前掲書)。