南廟の調査

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 南廟は台徳院霊廟とも呼ばれ、『大本山 増上寺史』に収載された昭和一七年(一九四二)の墓域図によれば、面積は五五五〇坪余であった。
 南廟は、南北に延びる芝公園の台地の南端に位置する。この台地は、東に江戸内海(東京湾)を遠望し、西は古川に注ぐ谷が入り込んでいる。また幾筋かの谷が東西方向に刻まれており、秀忠墓の参道が、その谷間に整備されたことが発掘調査によって明らかとなった。現在、日比谷通りに面して旧台徳院霊廟惣門(そうもん)(国指定重要文化財)が現存する。ちょうど旧参道上に位置し、当初は四〇メートル程西方に建てられていた。この惣門を潜(くぐ)ると参道は西に向って徐々に高度を上げ勅額門(ちょくがくもん)に達する。この奥が崇源院霊牌所で、その南方の段丘先端の中央付近に秀忠墓が設けられていた。ちなみに秀忠墓の東には、都内最大級の前方後円墳といわれる芝丸山古墳が横たわっており、秀忠墓はこれを避けて造営されている。廟墓の調査は、昭和三三年七月から八月にかけて行われた。
 秀忠は寛永九年(一六三二)正月二四日に、五三歳で没した。同二七日には葬儀と密葬が執り行われ、二月一〇日に廟墓の造営が始められた。七月二一日には本堂の上棟式が挙行され、開眼供養が催された七月二四日に廟墓の造営はほぼ終了した。
 秀忠墓の宝塔は木製で、埋葬所中央に据えられた台座の上に安置されていた。棺は、宝塔の下位に構築された石室内に納められていた。石室は地表面から一・一メートル強のところに上面があり、大谷石の板石を組み合わせて作られ、規模と形状は、およそ一・八メートル四方の方形で、高さも一・八メートル程度であった。石室の蓋石(ふたいし)は二枚で、ともに長さが約三メートル、幅と厚みが約一メートルの、花崗岩の巨石が用いられていた。石室内には礫(れき)と黒色土が充満し、調査時に木棺の一部が隙間から見られたという。棺は桶であった。輿のまま埋葬所に運ばれ、そのまま納められた。遺体は、白綾小袖(しろあやこそで)ほか約四領と、冠を着装していたとみられる。副葬品は着物等衣類や布製品が多く、大小の刀、鉄砲、デルフト焼(オランダ製陶器)の香炉、楽焼の香炉、笏(しゃく)、扇などが報告されている。
 秀忠墓は、将軍の廟墓としては質素である。棺に桶を用いている点は、初代仙台藩主伊達政宗(だてまさむね)の墓にも通じ、江戸時代初期の、上位の武家階級の葬制とみることができる(伊東編 一九七九)。
 平成一三年(二〇〇一)一二月から翌年の四月にかけて、旧台徳院霊廟惣門の裏手から勅額門跡地の手前に至る区画で発掘調査が行われた(港区教育委員会編 二〇〇六)。この調査で、昭和三四年(一九五九)の開発事業直前の地表面が現れ、参道に沿って献備された石灯籠の基礎、曳き家前の惣門の土台と惣門前に構築された大下水(おおげすい)が検出されている。さらに、秀忠墓造営前の原地形を観察することができており、秀忠墓の宝塔が、かなり下方から仰ぎ見る位置に据えられていたことが推測された(髙山 二〇一二)。
 石灯籠の基礎は五七基を検出した。石燈籠の奉献は、大名であれば石高など、奉献者の社会的な位置により二基一対として奉献している場合と、一基のみの場合とがある。基礎は、五角形にした板石を六角形となるように六枚敷き並べ、中央の隙間に礫を充填する。この構造は全ての基礎で共通する。この上に載せられた石灯籠は、多様な形状であった可能性があるが、次に述べる北廟に設置された石灯籠は、太鼓のように膨らんだ棹を持つ、徳川将軍墓型あるいは霊廟型とでも呼べるような斉一性のとれた製品である(石神 二〇〇九)。
 旧惣門の前で検出された大下水は、石垣石を三段積み上げて構築されており、幅は四・六メートルを測る。石積みの高さは約二メートルで、最下段の石垣石の前面に宝永の火山灰がこびり付いていたことや、積み直した様子が見られなかったことから、構築当初の姿をほぼ留めていたと判断された。また惣門のすぐ前に当たる位置で橋の脚台が検出されている。
 秀忠墓に関しては、増上寺や千秋文庫に廟墓の絵図が残されており、これらに描かれている廟墓の様子を具体的に知る手掛かりが得られた。