名のある人びとの墓

469 ~ 473 / 499ページ
 考古学が発掘調査の対象とする墓の多くは、埋葬されている者が、どこの誰であるかがわからない。前項に縷々(るる)述べてきた増上寺徳川将軍家墓所のように、三〇基を超す被葬者が明らかな近世墓が調査された例は他にない。また昭和四六年(一九七一)には、河越逸行が芝西応寺(さいおうじ)で越前結城松平家墓所の調査を行っているが、改葬に伴う立会い時に簡便な記録を作成したに留まっている(栩木 一九九四)。その後、昭和四九年に行われた仙台藩初代藩主伊達政宗廟墓(宮城県仙台市)の調査は、被葬者が明らかな近世大名墓の計画的な発掘調査の嚆矢(こうし)といえるかも知れない(伊東編 一九七九)。港区内では、昭和五〇年代以降、三田済海寺(さいかいじ)越後長岡藩主牧野家墓所をはじめとし、旗本三井家、高家畠山家など、被葬者が明らかな墓・墓所の調査が断続的に行われてきた。天徳寺塔頭浄品院跡に相当する天徳寺寺域第3遺跡 (No.14-3)では藩士の墓が調査されている(天徳寺寺域第3遺跡調査団編 一九九二)。湖雲寺跡遺跡(No.187)では、岩槻藩大岡家墓所(大名墓)、永井家・服部家墓所(旗本)および一般墓所が地点を異にして発見されていることから、被葬者の身分や階層による埋葬施設の構造上の違いに留まらず、地形と墓所造営地の関わりが明らかにされると考えられる。また、宝永の火山灰を処理した痕跡も検出されており、墓所の変遷を追うことも可能であろう。大養寺跡遺跡(No.174)では、奉行職を勤めた旗本の墓が発見されており、役職と墓制葬制との関わりを知ることができるかも知れない。今後の調査の進展とその成果に期待したい(湖雲寺跡遺跡・大養寺跡遺跡については、港区教育委員会事務局文化財主管課から教示を得たことを付記しておく)。ここではまず、大名墓、旗本墓、藩士墓の例を通して、名のある人びとの墓の特徴などを見ていこう。
 越後長岡藩主牧野家墓所(済海寺 越後長岡藩主牧野家墓所〈No.55〉)は、幕末に初めてのフランス公使館が置かれた、三田四丁目の浄土宗寺院周光山済海寺に設けられた。墓は一七基で、藩主では二代忠成(ただなり)および四代忠壽(ただなが)から一一代忠恭(ただゆき)までの九名の墓が、藩主室では四代忠壽室ほか六名の墓が、その他子女の墓が造営された(図3-6-3-1)。

図3-6-3-1 済海寺墓所平面図
数字を打った墓が調査対象となった牧野家の墓。東京都港区教育委員会編『港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書』(1986)から転載。


 墓は、江戸時代に没年を持つ夫婦墓は原則として二基一対で、方形もしくは長方形を呈する同じ区画に構築されている。いずれも基壇の上に玉垣(周囲に巡らせた垣)に囲まれた基台をもち、玉垣の正面には、牧野家の家紋である三つ柏を浮き彫りにした石造の扉が付けられていたとみられる。家紋に金箔が付けられたものも認められた。
 墓標は、大正期以降に造墓された二基と子女合葬墓以外は近世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(仏塔の一種)の形をとり、最も古い寛文四年(一六六四)から最も新しい明治一一年(一八七八)まで、規模、形状等に大きな違いはない。高さはいずれも三メートルを超え、例えば四代忠壽墓で三・七七メートル、六代忠敬(ただたか)室墓で三・七五メートルを測り、九代忠精(ただきよ)長子忠鎮(ただしず)墓が三・二五メートルでやや小振りとなる。地下埋葬施設は構造から三類に分けられた。
 第一類は、大型の石室内に二重の木製の座棺を納めたもので、藩主として没した場合と、藩主正室、隠居後に没した旧藩主あるいは藩主嫡男では石室の蓋石に違いが認められた。木棺は二重で、石室と外棺の間には木炭が、外棺と内棺の間には漆喰が充填される(図3-6-3-2)。第二類は、石室をもたず土中に甕棺(かめかん)を納めたもので、藩主・藩主室合葬墓、子女合葬墓に使われている。一八世紀から一九世紀初頭に見られる第一類に対し、造営時期が一九世紀半ばから後半に集中していることから、近世大名墓としては新しい時期の構造といえる。第三類は小型の石室を組み、甕棺を納めたもので、遺骨が焼骨となっていることから改葬墓である可能性が高い。

図3-6-3-2 長岡藩主牧野家四代忠壽の墓(第4号墓)
東京都港区教育委員会編『港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書』(1986)から転載


 これらの墓は多寡の差はあるものの、概して副葬品が豊富で、一〇基の墓が銅板墓誌を伴っている。ただし、分家から養子として牧野藩主となった六代忠敬墓と七代忠利(ただとし)墓、ならびに六代忠敬室墓は副葬品が極めて少なく、本家‐分家の関係が反映された可能性がある。
 越後長岡藩主牧野家墓所の調査は、近世大名家の墓制葬制のあり方を具体的に知り得た点で、大きな成果を挙げた。特に、近世大名墓の様式化された地下埋葬施設の規模、形状、構造を把握できたこと、被葬者の出自による埋葬のあり方の違いが明らかになったこと、大名文化の一端をうかがうに十分な多様な副葬品が得られたことを、ここでは挙げておきたい(東京都港区教育委員会編 一九八六)。
 次に、増上寺境内安蓮社に造営された三井家墓所の例から、旗本家の墓制について垣間見よう。安蓮社(あんれんしゃ)は、増上寺旧境内の北端近くに創建された(本章三節四項参照)。江戸時代初期の有力大名土井利勝(一五七三~一六四四)が葬られ、増上寺大僧正の一人源誉存応(普光観智国師(ふこうかんちこくし))の墓があることで知られている。ここに、知行一五〇〇石取りの旗本三井家の墓所が造営され、当主およびその室が葬られた。嫡男の墓が作られた可能性もある。墓は、方形の基台の上に墓塔を載せたもので、墓塔は、初代および近世以前の代々を改葬したと思われる一基が五輪塔、埋葬施設を伴わない一基が宝篋印塔であったほかは、笠付きの角柱形で、地下埋葬施設は方形木槨(もっかく)内に甕棺を納めるもので、蓋石は三枚であった。副葬品は概して少ない(東京都港区教育委員会編 一九九二)。三井家の聞き取りでは、安蓮社に埋葬された男子は嫡男のみで、二男他は寺院を異にしているという。
 天徳寺塔頭浄品院には、上野国館林藩士岡尾家の子息と子女が葬られていた。男子は衛士、女子は末といい、埋葬施設は無槨の甕棺(かめかん)墓である。甕は、真焼けと呼ばれる良質の常滑(とこなめ)製品で、甕の蓋板が墓誌となっており、衛士は二一歳、末は二〇歳で亡くなったことが知れる。副葬品として、衛士墓からは六道銭(寛永通宝六枚)、櫛(くし)、煙管(きせる)、物差、扇(ただし、骨のみ)、数珠が、末墓からは六道銭(寛永通宝六枚)、櫛、煙管、土製人形、ガラス製簪(かんざし)、箸、穿孔(せんこう)のある角柱状木製品が、それぞれ出土した。遺骨の残存状態は極めて良好であった(天徳寺寺域第3遺跡調査団編 一九九二)。