名もなき人びとの墓

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 被葬者が明らかな墓・墓所の調査によって、被葬者が特定できない場合でも、埋葬施設の構造から、そうした墓・墓所に葬られた人びとの身分や階層を推定することが可能となっている。
 谷川章雄は、武家階級では、石槨(せっかく)石室墓は将軍家・御三卿、石室墓は主に大名家、木炭・漆喰(石灰)床・槨木槨木棺墓(もっかくもっかんぼ)、木炭・漆喰床・槨木槨甕墓、方形木槨甕棺墓、甕棺墓、方形木棺墓は旗本などの幕臣に整理でき、さらに藩士については幕臣の墓におおむね準ずるとしている。円形木棺(早桶)墓は、藩士や町人を葬る際に用いられたと考えられ、町名主になると甕棺墓が使われる場合もあった(谷川 二〇〇四)。これらの他に、火消壺転用棺があるが、乳幼児の棺として用いられることが多い。また直葬といい、棺を用いずに墓坑の中に直接葬ることもあり、菰(こも)や筵(むしろ)にくるまれていたと思われる検出例もある。火葬については、二代将軍徳川秀忠(台徳院)室崇源院の例が著名であるが、火葬蔵骨器の検出比率が、例えば天徳寺塔頭浄品院跡(天徳寺寺域第3遺跡〈No.14-3〉)のように、埋葬施設全体の一割に満たない場合もあれば、中央区の八丁堀三丁目遺跡(東京都中央区教育委員会 一九八八)のように大半が火葬蔵骨器によって占められていた例もある。
 被葬者不明の墓は、捨て墓様の景観が彷彿されるように、面的にも、また垂直方向にも複数が重複して検出されることが少なくない。棺の外に散乱した状態で検出される人骨は、新たに棺を入れる際に破壊された既存の棺から放棄されたものと推測される。また、一つの棺の中から複数の頭蓋骨や複数人の四肢骨など出土する場合があるが、明らかな追葬でない限り、散乱人骨の発生と同様の背景があると考えられる。埋葬施設の重複は、人の出入りが激しかった江戸では、供養が途切れ、無縁となる墓が多かったことの表れであろう(西木 一九九九)。  (髙山優)