湖雲寺跡遺跡の事例

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 徳川将軍家や長岡藩主牧野家に見られる貴族的形質が身分社会といわれる江戸時代において、どの階層にまで広がっていたのかは近世人骨研究における重要なテーマの一つである。平成二九年(二〇一七)、港区六本木の湖雲寺跡遺跡(No.187)から一〇〇〇体以上の江戸時代人骨が出土した。同遺跡は二万三千石の大名である岩槻藩主大岡家と、七〇〇〇石の旗本永井家といった、当時の支配階級に属する人々の骨を含む点で貴重な事例である。墓域も大岡家、永井家、その他の三つに明確に区分されている(パスコ編 二〇二一)。
 比較的遺存状況の良好な永井家と、その他墓域から出土した人骨に貴族的な特徴がみられるかを検討するため、男性について顔面頭蓋(頭蓋骨の顔の部分)の計測値を、徳川将軍家と牧野家の平均値とともに、偏差折線として図3-6-コラム-3に示した。基準値は江戸時代庶民男性をとっており、徳川将軍家と牧野家はともに顔の細さを表す上顔示数、眼窩の高さを表す眼窩示数、鼻の幅の狭さを表す鼻示数、下顎の繊細さを表す下顎枝示数が江戸時代庶民から大きく離れているのがわかる。永井家の男性も、下顎枝示数を除いて、徳川将軍家と牧野家同様に顔が細く、眼窩が高く、鼻の幅が狭いなどの貴族的形質の傾向が認められる。その他墓域の人骨にも徳川将軍家ほどではないが、同様の傾向がうかがえる。

図3-6-コラム-3 偏差折線による顔面頭蓋の平均値比較(男性)
中央の基準値は江戸時代庶民男性の平均値(流山市西平井根郷遺跡)


 また、永井家とその他墓域の人骨の貴族的な特徴が、他の支配階級に属する人骨と比べてどのような傾向を示すか、顔面頭蓋の中顔幅、上顔高、眼窩幅、眼窩高、鼻幅、鼻高の六項目を用いてペンローズの形態距離を計算してみた。結果を図3-6-コラム-4に示す。江戸時代庶民(千葉県流山市西平井根郷遺跡)を基準とし、各集団は棒グラフが長いほど江戸時代庶民との形態的な距離が大きいことを表す。男性では徳川将軍家がもっとも江戸時代庶民から離れ、長岡藩主牧野家(七万四〇〇〇石)、沼津藩主水野家(五万石)、高遠藩主内藤家(三万三〇〇〇石)、旗本永井家(七〇〇〇石)、その他墓域、江戸府内庶民(江東区深川浄心寺)と石高ないしは家格が低くなるにつれて距離も小さくなる傾向が見られる。一方、女性の場合は男性と同様の傾向は見られず、江戸時代庶民との距離は徳川将軍正室、大名家、旗本永井家とは大きく、徳川将軍側室、その他墓域、江戸府内庶民とは小さい傾向が見られる。将軍正室には皇族や公家出身、将軍側室には旗本家などの出身が多く、このような出自の影響が女性の場合は傾向として強く表れている可能性がある。

図3-6-コラム-4 ペンローズの形態距離(顔面頭蓋6項目)
上図は男性、下図は女性。棒グラフの長さは各集団の江戸時代庶民(千葉県流山市西平井根郷遺跡)との距離の大きさを表す。
徳川将軍家(鈴木 1967、馬場・坂上 2012)、長岡藩主牧野家(加藤ほか 1986)、沼津藩主水野家(鈴木 1985)、高遠藩主内藤家(鈴木 1985)、江戸府内庶民(浄心寺)(鈴木 1967)


 以上のように、旗本である永井家に強く貴族的な特徴が認められる要因としては、永井家が遺伝的には近世初期以来の大名である永井家の血筋を引いていること、七〇〇〇石という石高は、一八世紀末に約五〇〇〇家存在した旗本家の中でも上位二パーセントに入る家柄であることが関連していると思われる。その他墓域の人骨も甕棺(かめかん)埋葬が多く、大名家菩提所という湖雲寺の寺格から被葬者もある程度の社会的身分を有していたと推察される。貴族的形質は徳川将軍家や大名家だけでなく、大身の旗本家やそれ以外の層にも及んでいた可能性がある。ただし、男性について下顎枝示数は永井家、その他墓域の人骨ともに徳川将軍家と牧野家よりは江戸時代庶民に近い傾向を示す。これは食生活の影響が要因の一つとして考えられる。
 本コラムで述べたように、港区には将軍家菩提寺である増上寺をはじめ、多くの寺院や近世墓地遺跡が存在する。立地的にも歴史的にも、近世人骨研究にとって港区は重要な地域であり、今後も調査事例の増加によってさらなる人類学的研究に重要な役割を果たしていくことが期待される。  (奈良貴史・辰巳晃司)