青山六か町

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 青山御手大工町は近隣の町々と共同で町の運営を行っていた。「町記」には、「六ヶ町大月番(つきばん)」、「青山六ヶ町諸入用割合」などとあるが、この六か町は御手大工町のほか、六軒町(現在の南青山二丁目)、若松町(現在の北青山一~二丁目)、浅河町(あさかわちょう)(現在の北青山二丁目)、御炉路町(おろじまち)(現在の北青山一~二丁目)、五十人町(ごじゅうにんちょう)(現在の北青山二丁目)である(図4-1-2-1)。
 文政一〇年(一八二七)当時、これらの六町のうち浅河町を除く五町の名主は七左衛門であるが、浅河町の名主は善三郎である(「町方書上」)。善三郎は浅河町だけではなく、青山では御掃除町(おそうじまち)(現在の赤坂四・七丁目)や善光寺門前(現在の北青山三丁目)の名主も務め、赤坂にも支配町を有した。青山六か町は、名主支配の枠組みとは一致せず、近隣の地域同士のつながりをもとに形成されたと考えられる。
 ただし「町記」では、寛政四年(一七九二)五月に、六町の家主の定数が、浅河町一八人、残り五町で六二人(内訳は御手大工町一七人、若松町一一人、五十人町一八人、御路炉町一二人、六軒町四人)の計八〇人と決められている。この人数割のあり方からは、名主を同じくする五町のまとまりを読みとることができる。