町火消

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「町記」には町火消(まちびけし)に関する記事が多くみられ、町火消の運用は町運営における主要な用務の一つであったと考えられる。
 江戸の町火消は、明暦(めいれき)三年(一六五七)の江戸大火の翌年にあたる万治(まんじ)元年(一六五八)に、町人地の防火・消火を担う消防組織として、町奉行による指揮・動員が始まった(『江戸町触集成』一-二二四・二二五)。このときには日本橋北部の二組と南部の二組を中心に、六つの組合が設置されたが、港区域の赤坂伝馬町(現在の元赤坂一丁目)と元赤坂(「本赤坂」、現在の元赤坂一丁目)は、周辺の元飯田町(「飯田町」、現在の東京都千代田区富士見・九段北)・市谷船河原町(現在の東京都新宿区市谷船河原町)・糀(こうじ)町(現在の東京都千代田区麴町、新宿区四谷)・四谷伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)とともに、一つの組合とされた。ただし他の五組とは異なり、火災発生時の特定の集合場所は定められず、 それぞれが火元へ駆け付けるよう命じられており、組合として組織だった動きは十分にはなされていなかったとも考えられる(髙山 二〇一八)。
 それが享保五年(一七二〇)になると、江戸の町火消は、いろは四十七組(後に四十八組)と本所深川十六組に編成され、同一五年には前者は一〇の大組(後に八組)、後者は三つの大組に分けられ、町火消の組織化が進んだ。港区域に存在した町々が属した組合は、表4-1-2-3のとおりである。

表4-1-2-3 港区域の町火消
『重宝録』三(東京都生活文化局広報広聴部情報公開課、2002)をもとに作成

注)二番組は全体で7組、三番組は7組、五番組は9組の小組で構成されている。なお、え組は江組とも記される。


 
 町火消人足(にんそく)には鳶(とび)人足と店(たな)人足が存在した。享保期(一七一六~一七三六)の町火消は、住民が交代で務める店人足が中心であった。しかし、消火に不慣れな店人足では十分な活動を行えず、天明七年(一七八七)には鳶人足を中心とする体制が制度化された。鳶とは「鳶の者」の略称で、建設・土木工事に従事する人(仕事師(しごとし))である。まだ燃えていない建物を壊して延焼を防ぐ破壊消防が主流であった当時は、建物の構造をよく知る鳶の者が町火消として大いに活躍した。
 鳶人足は抱(かかえ)人足と駆付(かけつけ)(欠付(かけつけ))人足で構成された。抱人足は「小頭」「町抱」などと呼ばれ、各町一人(小町の場合は複数の町で一人)が町に抱えられ、毎月の定給が町入用から支払われた。駆付人足は平(ひら)人足で、当初は出火のたびに賃銭が支給され、後に定給となった。寛政九年(一七九七)には、小組ごとに数名の人足頭取(とうどり)を抱人足から選出するよう町奉行に命じられ、人足頭取はそれぞれの組を統率した。これらの他に、各小組では纏持(まといもち)や梯子持(はしごもち)といった火消道具を運搬する人足が置かれることもあり、これらの人足が組単位で防火・消火活動を担った。
表4-1-2-3の中で最多の二三九人の鳶人足を擁する「め組」は、文化二年(一八〇五)、芝神明宮での相撲の興行中に、相撲取りと大乱闘に及んだ「め組の喧嘩」で知られる町火消である。事の発端は、相撲興行の木戸銭(入場料)の支払いをめぐる些細(ささい)なもめ事であったが、後に双方が仲間を呼び集め、大乱闘に発展した。この事件は後に「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」という芝居(歌舞伎)に仕立てられ、鳶人足の男伊達(おとこだて)で侠気(きょうき)な気風(面目を立て通し、意地や見えを張り、信義のためには命をも惜しまない気質)を伝えている(五章三節四項参照)。