青山六か町の町火消人足

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 青山六か町は五番組の「ふ組」に属したが、文政九年(一八二六)一〇月九日の青山六か町では、表4-1-2-4のとおり、御手大工町・若松町・六軒町で七人、五十人町・御炉路町で八人、それに龍吐水(りゆうどすい)(手押しポンプ)持(もち)の四人を加えた計一九人の町火消人足を抱えていた。町で抱える前二者の一五人について、「町記」には「抱人足」とあるが、表4-1-2-4を見ると、浅河町の栄次郎の下には金次郎と龍吐水持の政吉・久次郎、五十人町の岩吉の下には安五郎と龍吐水持の粂次郎が同居しており(「町記」では「栄次郎方同店」のように「同店」と記されているが、いずれも「同居」の誤記と考えられる)、栄次郎と岩吉は鳶人足の親分格の人物とみられる。両者がそれぞれの先頭に記されていることも考え合わせると、「町記」の「抱人足」には抱人足(小頭・町抱)と駆付人足の両方が含まれ、栄次郎と岩吉は抱人足、それ以外の一三人は駆付人足であったと考えられる。

表4-1-2-4 青山六か町が負担する町火消人足
「町記」* をもとに作成

注1)町で抱える15人のうち、栄次郎と岩吉は抱人足(小頭・町抱)、それ以外は駆付人足(平人足)であったと考えられる。
注2)青山六か町のうち浅河町の負担人足数は記されていない(理由は不明)。
注3)龍吐水持の人足は青山六か町で抱え置かれた分である。


 抱人足の栄次郎は、同じく抱人足であった熊右衛門の孫である。文化一一年(一八一四)六月に熊右衛門が退役するときには、退役願と、その跡を孫の栄次郎に命じることを願う届けを、人足一同が三町(御手大工町・若松町・六軒町)に出している。三町はその願いを認め、栄次郎は三町の抱える駆付人足となった。文政六年(一八二三)四月には祖父と同じ抱人足となったが、そのときには人足頭取の次郎兵衛も跡役願に加わっている。熊右衛門と栄次郎は、この地域の鳶の頭の家として、抱人足を務めたと考えられる。祖父の熊右衛門の名前は「町記」に散見され、毎年一〇月に町火消人足の名前調が行われる際には、熊右衛門がその報告を行っている。また退役時には、長年の労をねぎらい、三町が金二〇〇疋(ひき)(一疋は銭一〇文)の褒美を出している。このように町の側では、親分格の抱人足と密接な関係を保ちながら、町火消を運用した。
 なお、人足頭取の次郎兵衛とは、文化一二年一一月二四日に「六ヶ町頭取役」に就任するに際し、「役場道具」(「役場」は鳶の者が火事場を指して言う語)の諸経費を六か町で出金するよう願い出た、浅河町の次郎兵衛とみられる。表4-1-2-4では、青山六か町のうち浅河町が抱える人足数が記されていないが(理由は不明)、一五人の人足に続けて記された、龍吐水を持ち運ぶ四人の人足は、「龍吐水持之(の)儀は六ヶ町ニ而抱置候(にてかかえおきそうろう)」とあるように、六か町で抱えたことを確認できる(纏(まとい)と梯子(はしご)を持ち運ぶ人足は駆付人足が兼務した)。