表4-1-2-4 青山六か町が負担する町火消人足
「町記」* をもとに作成
注1)町で抱える15人のうち、栄次郎と岩吉は抱人足(小頭・町抱)、それ以外は駆付人足(平人足)であったと考えられる。
注2)青山六か町のうち浅河町の負担人足数は記されていない(理由は不明)。
注3)龍吐水持の人足は青山六か町で抱え置かれた分である。
抱人足の栄次郎は、同じく抱人足であった熊右衛門の孫である。文化一一年(一八一四)六月に熊右衛門が退役するときには、退役願と、その跡を孫の栄次郎に命じることを願う届けを、人足一同が三町(御手大工町・若松町・六軒町)に出している。三町はその願いを認め、栄次郎は三町の抱える駆付人足となった。文政六年(一八二三)四月には祖父と同じ抱人足となったが、そのときには人足頭取の次郎兵衛も跡役願に加わっている。熊右衛門と栄次郎は、この地域の鳶の頭の家として、抱人足を務めたと考えられる。祖父の熊右衛門の名前は「町記」に散見され、毎年一〇月に町火消人足の名前調が行われる際には、熊右衛門がその報告を行っている。また退役時には、長年の労をねぎらい、三町が金二〇〇疋(ひき)(一疋は銭一〇文)の褒美を出している。このように町の側では、親分格の抱人足と密接な関係を保ちながら、町火消を運用した。
なお、人足頭取の次郎兵衛とは、文化一二年一一月二四日に「六ヶ町頭取役」に就任するに際し、「役場道具」(「役場」は鳶の者が火事場を指して言う語)の諸経費を六か町で出金するよう願い出た、浅河町の次郎兵衛とみられる。表4-1-2-4では、青山六か町のうち浅河町が抱える人足数が記されていないが(理由は不明)、一五人の人足に続けて記された、龍吐水を持ち運ぶ四人の人足は、「龍吐水持之(の)儀は六ヶ町ニ而抱置候(にてかかえおきそうろう)」とあるように、六か町で抱えたことを確認できる(纏(まとい)と梯子(はしご)を持ち運ぶ人足は駆付人足が兼務した)。