町火消の運用

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 御手大工町・若松町・六軒町は、三町で七人の町火消人足(抱・駆付)を抱えたが、この人足たちが町奉行所や名主宅に出向く際には、若松町と御手大工町が交代で「行事(ぎょうじ)」を同伴させた。出火時にもこの二町が交代で炊き出しを行い、駆付人足の弁当(米二升・香物・茶)を支給した。六軒町は「町方書上」に「至而(いたって)小町」と記されるほど小さな町であるため、これらの負担は免除されたとみられるが、半纏(はんてん)と股引(ももひき)の経費は三町で分担した。このように町火消人足に関する経費や用務は、町の規模や負担能力を考慮しながら三町で負担した。八人の人足を抱える五十人町と御炉路町も二町で負担したと推定される。
 一方、龍吐水持は青山六か町で負担し、「ふ組」の人足頭取の一人である次郎兵衛も六か町から選出された。駆付人足への賃銭や火消道具(「役場道具」)の経費をめぐる金銭に関するやりとりは、その人足頭取と町々との間で行われている。また、町火消の運用を担う毎月の当番は、一~一三日が久保町(現在の北青山二丁目)、一四~一七日が五十人町、一八~二一日が浅河町、二二~二四日が御手大工町、二五~二七日が若松町、二八~晦日が御炉路町とされ、青山六か町に久保町を加えて分担した(六軒町は免除)。町火消は、青山六か町の枠組みだけではなく、多様な町々の結合を組み合わせて、柔軟に運用されたと考えられる。 (髙山慶子)