公役銀と町入用

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 芝松本町一丁目は幕府に対する負担として公役銀を納めている。これは城下町の領主、つまり江戸では将軍(幕府)に対して負う役(やく)であり、町の人々はこうした役負担を果たすことで、城下での営業を認められた。当初の公役は町人足役(ちょうにんそくやく)といって、料理人足や砂利人足など、様々な人足を供出したが、享保七年(一七二二)以降は人足の賃銀に相当する銀を上納するようになった。その負担額は上・中・下に分けられ、上は五間(けん)(約九メ-トル、町屋敷の表間口)、中は七間(約一二・六メ-トル)、下は一〇間(約一八メ-トル)につき、年間一五回の人足を務めるとした。これを「一人役」といい、一人一回分の賃銀を二匁(もんめ)、つまり「一人役」は一年で銀三〇匁として算出した。芝松本町一丁目では、古町分(元地から移転して成立した分)は「七間口壱((一))人役」つまり「中」、幕府御家人の坊主衆が拝領した屋敷分(武士が町人地に与えられた拝領町屋敷の分)は「拾((十))間口壱人役」つまり「下」とされ、公役銀が算出されている。同じ町内であっても、それぞれの町屋敷の成立事情によって負担の割合が異なることが知られる(町によっては負担の種類自体が異なることもある)。
 こうした領主に対する負担は、厳密な意味では町入用とは言えないが、江戸の町々では町入用に組み込まれる形で会計処理された。町入用に占める公役銀の割合は二割ほどであるが、同じ時期の南伝馬町(現在の東京都中央区京橋)は、町入用の負担額が大きい上、伝馬役の割合は三割に達していた(吉原 一九八〇、吉田 一九九一)。役の種類や町の事情によって負担額は一様ではないが、伝馬役のように負担が過重な町はごく一部で、これまでに知られている役負担の事例の多くは、芝松本町と同じように町入用全体の一~二割ほどである。つまり、町の人々が領主(幕府)に対して納める負担はごく一部であり、大部分は町の運営や維持のため、つまり町人たち自身のための費用であった。自分たちが負担した経費は目に見える形で身近な生活のなかで使われており、町入用は負担も運用も住民自身の手で担われたのである。