家の相続と職の売買

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 大坂で生まれ育ち、のちに江戸に移り住んだ喜田川守貞(きたがわもりさだ)は、嘉永六年(一八五三)の序文を有する『守貞謾稿(もりさだまんこう)』のなかで、「名主の職をひそかに売る人がいる。表向きは養子としているが、実際は金銭で職を売買している。これによって名主の家名は絶えることなく続いている」と述べている。権威的な身分と安定した収入を有する名主役をめぐる裏事情といえる。港区域では芝田町(現在の芝五丁目、三田三丁目)の名主役をめぐって、表紙に「木挽町丸徳・坂本町一件・三木惣助一件 諸書物」 * と記された帳面(国立歴史民俗博物館所蔵)より、その実例を知ることができる。表紙には「天保十五辰年正月綴(つづり)」「田中」とあり、この帳面は天保一五年(弘化元・一八四四)当時、芝田町の名主であった田中喜兵衛の下で作成されたと考えられる。
 帳面の冒頭には、名主の三木惣助が田中喜兵衛に宛てた、天保六年(一八三五)二月六日付の証文(「一札之事」)が書き写されており、その証文から、田中喜兵衛は持参金九五〇両で三木惣助の養子となることを読み取れる。本証文はその持参金のうち一五〇両が支払われた際の証書である。
 三木惣助は病気が重なって名主役を務めることができなくなり、多額の借金を負っていた。一方の田中喜兵衛は、武蔵国足立郡千住四丁目(現在の東京都足立区梅田・足立辺り)の年寄である平岡六右衛門の弟である。喜兵衛はいったん田町五丁目の家持(田中家)の養子となった上で、名主の三木惣助の養子となる段取りであったとみられるが、惣助の借金返済が予定どおり進まず、名主役も約束どおり引き継がれなかったことから訴訟になった。最終的には家名が三木から田中に替わる形で名主役が交替しており、養子という体裁にはならなかったが、金銭の授受をともなう名主役の引継は、田中喜兵衛の側から見れば安定した職(身分)の確保と家督を継げない弟(次男以下)の独立、三木惣助の側から見れば借金の返済資金の獲得を、それぞれにもたらした。