町が自治的に運営されたことは、青山六か町や芝松本町の事例で見たとおりであるが(本節二・三項参照)、町は領主である徳川将軍家の城下町を構成する町人地に属する以上、領主の統制・支配を受けた。
江戸の町々に名主の設置が命じられたのは、明暦二年(一六五六)である。それ以前から名主のいる町も存在したが、同年一二月九日に出された町触(まちぶれ)では、名主不在の町には名主を置くことを命じ、名主には町屋敷の売買証文や遺言状に署名・押印する、つまり住民の財産を保証することと、もめごとを内々で調停することを求めている(『江戸町触集成』一-一四八)。これらの役割は、当事者と利害関係をともにする立場で担うことは難しく、一般の住民とは異なる権威的な名主であるからこそ可能であったと考えられる。
享保七年(一七二二)には、それ以前から存在した名主組合を町奉行所が公認した(表4-1-3-2・表4-1-4-1の名主番組)。名主組合(番組)とは、町触の円滑な伝達や諸々の話合いの便宜のため、名主たちが最寄りの地域ごとに形成した組合である(『江戸町触集成』三-四九七九)。その組合を町奉行所が公認したということは、町人地を支配・統制する制度のなかに名主を正式に位置付けたと理解できる。
町奉行所は、寛政改革期に町会所定掛(じょうがかり)、天保改革では市中取締掛(かかり)や諸色(しょしき)掛といった様々な掛(かかり)(分掌)を設けて、町人地の支配・統制にあたったが、名主たちはそれらの掛に掛名主として動員された(加藤 一九八七、小林 二〇〇二)。名主は自身の支配町内を治めるという当初の役割を超えて、領主の法令を伝達したり、町人地全体の広域都市行政に参画したりするようになったのである。名主は住民の代表であるとともに、領主による町人地支配の一端も担ったといえる。