4-1 コラム 名主の見た幕末維新

50 ~ 51 / 378ページ
 芝松本町一・二丁目(現在の芝三丁目)の名主である浦口清左衛門は、「公私日記」(*)と題する日記をつけた。その日記の原本は残っていないが、慶応三年(一八六七)一二月一日から明治二年(一八六九)五月一九日までの記事が「東京市役所」の罫紙に書き写され、現在は「東京市史料」(東京市史資料)として東京都公文書館に所蔵されている。「公私日記」の名のとおり、日記には娘と思われる「千鶴」の婚姻といった私的な記事も見られるが、大半は名主としての職務に関係する公的な内容であり、名主の目線・立場で、江戸から明治・東京へと移り変わる激動の日々の出来事が書き留められている(片倉 二〇〇九)。
 芝の薩摩藩島津家の上屋敷(元来は中屋敷、現在の芝二・三丁目)は、慶応三年一二月二五日の薩摩藩邸焼討事件で焼失した。この事件は、将軍不在の江戸で市中の警備を担当していた庄内藩酒井家を中心とする諸藩の兵が、市中の治安を乱す浪士たちが出入りする薩摩藩上屋敷を焼き討ちしたもので、翌年の鳥羽・伏見の戦いの直接的な契機となったことで知られる(事件の顛末(てんまつ)は二章一節八項に詳しい)。芝松本町は薩摩藩上屋敷とは至近の距離にあり(図4-1-3-1参照)、日記には目の前で起きた同事件の様子が克明に記されている。
 清左衛門は、事件前の一二月九日に酒井家の兵が飯倉・三田・金杉に集結したことを記しており、この辺りがすでに緊迫した状況にあったことが読み取れる。同月一一日には同役の名主たちとの寄合で、清左衛門が属する九番組(表4-1-4-1)の町々で五件の打ちこわし・強盗(「押込」)があったことが報告された。一八日には会津藩士(「保科之家来」)と思われる者の生首が金杉橋に置かれていたとあり、治安が悪化した物騒な状況が伝わる。同月二三日は、酒井家の屯所に浪士たちが銃弾を撃ち込んだ日であるが、清左衛門は日中酒井家の屯所に立ち寄っており、その日の夜一一時頃にその屯所で銃撃があった。四〇~五〇発の銃弾が飛び交い、酒井家の「小者(こもの)」(武家に仕えて雑役に従事する軽輩者)一人と「小使(こづかい)」(雑用に従事する者)の要助が銃丸にあたって即死した。要助については、翌二四日に清左衛門が、同役の名主の寄合に出席した後、三田三丁目(現在の三田二丁目)に出向き、夫を亡くした妻に手当金のことを伝えている。近隣の町の住民が銃撃に巻き込まれており、銃撃は清左衛門の身近なところで起こっていたことが知られる。
 そして一二月二五日、酒井家が薩摩藩上屋敷の焼き討ちを実行した。日記によると、午前八時頃、二〇〇〇人ほどの酒井家の兵が甲冑姿で町内に繰り込み、他藩の兵と幕府の歩兵(日記には「散兵」とあるが正しくは「撒兵(さっぺい)」〈幕府の洋式歩兵〉)が薩摩藩上屋敷を取り囲んだ。双方発砲し屋敷内外で浪士・薩摩藩士二〇人が討死、町内では五人が酒井家の兵に討たれた。放火もあったが、幸い町内に火は燃え移らなかった。散々の撃ち合いの末、残党の浪士らは田町方面に落ち行き、田町、品川で放火、三田にある佐土原藩島津家の上屋敷(「小山島津邸」)と高輪の薩摩藩島津家の下屋敷でも放火や銃撃があった。一連の事実経過を記した後、清左衛門は「恐敷覚申候(おそろしくおぼえもうしそうろう)」つまり「怖かった」と率直な思いを記している。
 清左衛門は家族を「狸穴(まみあな)」(飯倉狸穴町、現在の麻布台二丁目)に避難させたが、その一方で清左衛門のもとに見舞いに駆け付ける人もいた。「左松親子」(左官職人か)は銃弾が飛び交う中で土蔵の戸前を打つ(扉を閉めて隙間の目塗りをする意か)など、諸々の手伝いをしてくれたとあり、清左衛門の周囲は緊迫した危険な状況にあったことが伝わる。
 翌二六日、清左衛門は前日の顛末を町奉行所に報告、夜には南町奉行所から呼び出され出頭した。町内に取り残された五体の遺体は、酒井家の指示で回向院に送っている。夕方には清左衛門の居宅に砲弾が撃ち込まれるという騒動もあった。二七日には、遠方の親戚が続々と清左衛門を来訪しており、落ち着かない日々が続いている。家族が戻ってきたのは二八日のことで、翌二九日は年内最後の日。大掃除と神明宮参拝を済ませて、新年を迎えている。
 港区域の町人地に生きた名主もまた、幕末維新の激動のなかにいたことを、清左衛門の日記は伝えている。
 (髙山慶子)