不在地主は自身に代わって町屋敷を管理する者を置き、居付地主(家持)も家業に専念するため町屋敷の管理を人に任せるようになる。この町屋敷の管理を委託された人を、家主(いえぬし)・家守(やもり)・大家(おおや)(大屋)という。家主は人別帳(にんべつちよう)(江戸時代の戸籍簿)をはじめとする公文書に見られる表記で、家守は地主との関係性を示す呼称、大家(大屋)は俗称である。
家主は地主から給金(家守給)を得て、店子(たなこ)と称される町屋敷の住民から地代・店賃(たなちん)(家賃)を徴収したり、幕府の法令を住民に伝達したりするなど、住民の世話全般を引き受けた。町の住民は「鉄五郎店(たな)栄次郎」のように記されるが、「鉄五郎」が家主で、「栄次郎」が住民である。家主の鉄五郎が管理する長屋(「店」)に住む栄次郎、という意味である。人別帳による住民登録でも、町屋敷ごとに、家持(不在の場合は記載なし)、家主、店子の順に名前が記載されており、町の住民は家主単位、つまり町屋敷ごとに把握された。
家主は、当初は家持が行っていた町の運営においても、中心的な役割を担うようになった。家主たちの中から月行事(がちぎょうじ)を出し、毎月交替で自身番屋に詰めて町用を務めたが、その実態は青山六か町の「月番」の事例で見たとおりである(本章一節二項参照)。
本節では、以上の町屋敷をめぐる具体的な様相を、港区域の事例でみていく。二項では、現存が確認されている港区域の沽券図から、当時の地価(沽券金高)や地主のありようを明らかにする。三項では、地主のなかでも、武士が町人地を所持する事例に着目する。このような土地の多くは拝領町屋敷と称されるが、本項ではその拝領町屋敷を中心に武家地主の実態を検討し、港区域の町人地の特徴を探る。そして四項では、赤坂に町屋敷を所持する地方在住の地主による町屋敷経営の実態を紹介する。 (髙山慶子)