江戸の各町では、宝永七~正徳元年(一七一〇~一七一一)と寛保四年(延享元・一七四四)の二度にわたり、沽券図(こけんず)という絵図が作成された。これらはそれぞれ、正徳沽券図、延享沽券図と呼ばれている。沽券とは町屋敷の売り渡し証文のことで、この絵図は、各町の町屋敷の地主、家守(家主)、間口・奥行・坪数、沽券高(地価)、小間高(こまだか)(間口一間・奥行一間あたりの沽券高)が記されている。作成された時期が、本所・深川・山の手の町や寺社門前地を町奉行支配に編入する直前にあたっていることから、町奉行所が町人地の再編成の一環として、町屋敷の地価を掌握する目的で、各町の名主に作成させた絵図と考えられている(玉井 一九七七)。
沽券図は、町屋敷一筆ごとの寸法が記されていることから、町の敷地割の復元に不可欠な史料である。さらに、周辺地域との地価の比較によって町の経済力を計ることができ、町屋敷所持の状況や家守の展開の状況も判明することから、江戸の社会を分析する上での基礎史料として、注目されてきた(玉井 一九七七ほか)。
本来ならば、一六〇〇~一七〇〇ほどの町全てについて作成されたはずであるが、現存するものは写(うつし)や控(ひかえ)を含めても六六点に過ぎず、このうち延享沽券図が五一点を占めている。また、五一点は江戸中心部の日本橋・京橋のものである。こうした中で、六点は港区域の五町のもので、この中には正徳沽券図の写(うつし)も二点含まれているから、中心部を除けば、港区域は沽券図に恵まれた地域といえる。ここでは一部分しか存在していない兼房(けんぼう)町(現在の新橋二丁目)の正徳沽券図以外について、これらの沽券図を北から順にとりあげ、町屋敷の所持状況や、町の経済力の指標の一つとなる地価を沽券高・小間高より読み取っていきたい。