二葉町

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 二葉(ふたば)町(現在の新橋一丁目)は、愛宕下地域の町で、北側は江戸城の堀に面している。寛文年間(一六六一~一六七三)ごろは幸(さいわい)町(現在の新橋一丁目)と呼ばれた町があったが、元禄(げんろく)四年(一六九一)に幕府に取り上げられ、最終的に宝永六年(一七〇九)に大半が江戸城本丸女中に、一筆が奥医師桂川甫竹(ほちく)(甫筑)に与えられ、一筆が町人の町屋敷となった。同町の正徳沽券図(「二葉町沽券図」図4-2-2-1)によれば、町は北側八筆と南側四筆からなり、北の屋敷⑦が町人である家持惣次郎の所持屋敷、屋敷⑩が桂川、ほかが女中の拝領町屋敷であった(杉森 二〇〇四)。拝領町屋敷は売買できないが、沽券図には近隣の町屋敷の売買価格から算出した金額が記されている。この町の場合、小間高は、北の角屋敷①が一五〇両、同じく⑧が一二〇両、南の角屋敷⑨が八〇両、同じく⑫が一〇〇両で、北の中屋敷が一〇〇両、南の中屋敷が五〇両であった(個々の金額は杉森論文を参照)。基本的に角屋敷の地価が高いこと、また南側より堀に面した北側の地価が高いことがうかがわれる。惣次郎以外の地主はすべて家守を置いており、幕末段階で判明する拝領町屋敷八屋敷のうち四屋敷は、貸家や貸地により収入を得る町屋敷経営に利用されていた。おそらく早い時期から町屋敷経営が展開していたと思われる。

図4-2-2-1 二葉町沽券図の概略図
杉森玲子「江戸二葉町沽券図と大奥女中の町屋敷拝領」『日本歴史』672(2004)から転載


 
 沽券図作成段階の日本橋地区の小間高は、メインストリ-ト(本町通り・日本橋通り)や河岸に隣接した町では角屋敷で約三〇〇~七〇〇両、中屋敷で約二〇〇~三〇〇両、また裏通りで角屋敷一〇〇両・中屋敷六五~八〇両である(玉井 一九七七)。したがって、二葉町はおおよそ日本橋地域の裏通りの町と同程度の地価であったといえよう。