芝神明町

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 芝神明町は、京橋地域の南側に位置する東海道沿いの両側町で、京間で設定された古町(本章一節三項参照)の一つであった。「江戸芝神明町旧図」(東北大学付属図書館所蔵、図4-2-2-2)は、「寶永八辛卯年四月十三日改古圖」とあることから、正徳沽券図の写と考えられる(岩淵 二〇一七)。
 

図4-2-2-2 芝神明町沽券図の概略図
岩淵令治「江戸の沽券図について」『国立歴史民俗博物館研究報告』204(2017)から転載
一部加筆


 屋敷の外形については、二六筆のうち、表間口について八筆が「延地(のびち)」(E3・E6・E8・E12・W2・W10・W11・W13)、九筆が「不足地」(E4・E9・E11・W3・W5・W6・W7・W9・W12)の注記がある。正徳沽券図以前に設定された敷地割をもとにあらためて屋敷寸法が測られたと推測される。同様の記載は、南鍋(みなみなべ)町(現在の東京都中央区銀座)ほかを記載した延享沽券図一点のみで、南鍋町一・二丁目と瀧山町(現在の東京都中央区銀座)にしか「延地」は見られない。
 東側は一二筆で、小間高は角屋敷が一〇五両、中屋敷が八〇両、西側は一四筆で、角屋敷が一二〇両・中屋敷が一〇〇両となっている。角屋敷は二葉町には及ばないが、正徳沽券図段階の小間高で、日本橋の裏通りの延享沽券図段階の小間高とほぼ同クラスとなっている。すでに、寛永一六年(一六三九)の沽券状によると、東側表五間・裏行(うらゆき)(奥行き)町並の町屋敷(E11か)が江戸小判一八〇両で売り渡されるなど(「町方書上」)、早くから売買が行われていたことがうかがえる。これは、西側は間口の両側が通りに面し、さらに芝神明宮の門前「神明前」の一角を構成した一大繁華街であったためであろう(本章四節四項、五章一節・三節四項・四節参照)。このため、東側よりも小間高が高くなったと考えられる。
 自身で町屋敷に居住する居付地主は東側が三筆、西側が八筆で、特に東側で地主の不在化が進んでいる。不在地主には、内神田の橋本町二丁目(E1)、他国者(W10地主京都知恩院門前)もみられるが、芝口町(E3・E5)・柴井町(E6)・浜松町(E12)・源助町(W3)といった近辺の居住者が中心であった。また、居付地主のうちE4・W1・W2と不在地主のW14は「弐人役(ふたりやく)」(二軒分の役を勤める)となっており、隣地の取得によって町屋敷を併合した可能性が高い。居付地主のうち、W8の清兵衛(柳屋)はもと泉州堺の鉄砲鍛冶で、徳川家康の入国以前から住居し、「江戸地張元祖」の看板を掲げて代々「梅忠流」の煙管(きせる)張を商売とした者であった。この土地は草分地主(町を開発した地主)で「先祖清兵衛草分ニ而(にて)沽券地ニ相成候節(あいなりそうろうせつ)御割付ニ而(にて)頂戴仕候(つかまつりそうろう)地面」であり、この沽券図作成直後にあたる正徳年中に沽券金一三〇両で売却したものの、引き続き家守として居住し、文化八年(一八 一一)に三五〇両で買い戻したという(「町方書上」)。