芝車町・如来寺門前町

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 芝車町(別称高輪車町 現在の高輪二丁目)は東海道沿いの江戸湾に面したほぼ片側町で、その南側に如来寺門前町が続く(図4-2-2-3、口絵3)。一八世紀に入ると、江戸の拡大にともない、東海道から江戸に入る関門として、高輪大木戸が高札場とともに町の北寄り(屋敷6)に設けられ、この時期はいわば江戸の南の境界となっていた。ただし、その後の火災で木戸は焼失し、再建されなかった。おそらく江戸の拡大に伴って木戸は機能を失ったのであろう。芝車町は、寛永(かんえい)一一年(一六三四)に増上寺安国殿普請のために幕府が集めた京都の牛持らに同一六年に与えられ、「牛町」という俗称もあったが、やがて品川に続く東海道の海沿いに眺望を楽しむ茶屋が建ち並び、遊客や、「江戸の喉口(のどぐち)」として旅立ちや出迎えの祝宴で賑わいも見せるようになった(『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』口絵7、本章四節三項参照)。
 沽券図は養玉院所蔵本(「高輪車町及び如来寺門前絵図」)と港区立郷土歴史館所蔵本(「高輪車町沽券図」)の二点が現存する。両者はほぼ同内容であるが、前者にのみ印鑑があり、後者には記載漏れがあるため、後者は写と考えられる。ただし、後者には前者に見られない願生寺の屋敷境や寸法の記述があることから、願生寺にかかわって作成された可能性がある。元文元・二年(一七三六・一七三七)の記載があるためそれ以後の成立であるが、沽券図の書式で作成されていることから考えて、延享沽券図である可能性が高い。
 では、沽券図を見ていこう。芝車町は東側一筆(屋敷1)・西側三五筆(屋敷2~35・36)の計三六筆、如来寺門前町は三筆(屋敷a~c)の町屋敷から成る。町屋敷の間には、如来寺ほか西側に隣接する寺院への参道が五本設けられている。如来寺門前町をはさんで飛地となっている屋敷36は、寛永一九年(一六四二)に町の一部が泉岳寺大門の用地として幕府から取り上げられた際に、代地として与えられた屋敷であった。このほか、屋敷25と26の間の敷地に稲荷が設けられている。

図4-2-2-3 芝車町の沽券図と概略図
「高輪車町沽券図」(口絵3)


 
 小間高は、江戸中心部寄りの芝車町の北角屋敷(屋敷2)が小間高五〇両と突出し、ついでその南隣の屋敷3が小間高三五両である。続いて、屋敷4~8と16~25が小間高三〇両で、このほかの多くは金二〇両、屋敷面積の狭い28・29は金一三両となっている。また、地主は26が観世権八郎、27・30・31が御家人の拝領町屋敷、如来寺門前町が如来寺(a~c)、残る町屋敷は一〇筆が居付地主(図の表記は「家持」)、二〇筆が不在地主(「地主」)であった。町屋敷の地主のうち約三分の二が不在であったことがわかる。また、家守が二人置かれている町屋敷が四筆あった(屋敷3・9・14・33)。これらは同一の地主が購入し、合筆した結果であろう。場末の町であり、小間高は高くはないが、町屋敷の売買や地主の不在化が進展していたことがうかがわれる。