町屋敷を所持する武士

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 江戸では、武士は武家地、商人や職人は町人地に居住する、という身分別居住が原則であったが、武士が町人地の屋敷地を所持し、そこに住むこともあった。それには、①武士の拝領屋敷ではあるが、その敷地内に町人が居住して町屋敷と同様になった場合(二章二節三項参照)、②武士が町屋敷および町並屋敷(年貢等は代官に納めながら町奉行の支配を受ける、代官・町奉行の両支配の土地)を購入した場合、がある。①を拝領町屋敷といい、個人名義ではなく、作事方定普請同心(さくじかたじょうふしんどうしん)などという役職・組単位の集団でまとめて下賜された場合は、大縄拝領町屋敷という。これらは武家屋敷と同様に売買や質入れが禁じられた。②の武士による町屋敷・町並屋敷の購入は、江戸時代を通して禁じられることはなかったが、別名義や無届けでの購入・所持は規制されるようになった。①・②とも住人から地代・店賃をとることは許されており、①の地主の大半を占める下級武士たちは、地代・店賃収入を生計の足しにした。
 幕府の屋敷改(やしきあらため)が作成した「諸向地面取調書(しょむきじめんとりしらべしょ)」には、安政三年(一八五六)時点で武士が江戸で所持した屋敷の種別・所在・坪数などが書き上げられている。同書によれば、大名から旗本・御家人まで、武士が所持した屋敷地は合計一三一七万坪余であるが、そのうち町人地に存在した分は約五四万坪であった。武士の屋敷地全体に占める割合は四パ-セントほどに過ぎないが、江戸の町人地の総面積は約二七〇万坪であるから、町人地の二割は武家地主の町屋敷であった(宮崎 一九九二)。