天和三年の武家地主

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「南方 町屋鋪帳」(二冊はほぼ同内容)には三六一筆(「合(あわせて)三百六拾壱軒」)の町屋敷が掲載されている。そのうち港区域の町々に存在した、武士・浪人・医者などが所持する町屋敷は、表4-2-3-1のとおり一三七筆である。それぞれの町屋敷を取得した経緯は記されていないが、地主が変更した際の貼り紙には、「(新たな地主へ)売り渡す」、あるいは「譲渡」「指し遣わす」「(新たな地主が)乞い請ける」などとあり、なかには「町人方へ借金の方に遣わす」とも記されている。

表4-2-3-1 港区域における武家地主の町屋敷 天和3年(1683)
「南方 町屋鋪帳」(国立国会図書館所蔵)をもとに作成

注1)地主の多くは1人1筆であるが、同じ人物が2筆の町屋敷を所持する事例もある。
注2)飯倉町の伊丹弥五之丞次男は、武士に計上した。
注3)下一木赤坂伝馬町の御本丸比丘尼は本丸女中に計上した。


 
 表4-2-3-1の武士・家来・浪人の欄を見ると、増上寺門前町(現在の芝大門二丁目付近)には合わせて一八筆、芝金杉町(現在の芝一~二丁目、芝浦一丁目)に一四筆、芝西応寺門前町(現在の芝一~二丁目)に九筆、芝田町(現在の芝五丁目、三田三丁目)に七筆、本芝町(現在の芝四~五丁目)に五筆と、芝地域に多くの武士や浪人の町屋敷を確認できる。近世になって新たに造成された東海道沿いの海辺の低地は一定の面的な広がりを有し、商人や職人が集まって町人地を形成したが、そのなかには町屋敷を取得した武士もいたのである。
 また、外堀沿いの赤坂門の前に位置する下一木赤坂伝馬町(現在の元赤坂一丁目)には一二筆の武家地主の町屋敷を確認できる。これら一二筆の武家地主一一人(諏訪勘兵衛母は二筆所持)のうち八人は女性名義(当人の母二人、娘二人、孫娘一人、妹一人、妻一人、小舅女一人)という特徴も見られる(その要因は不詳)。
 なお、今井町の武士は、表間口一一間余、裏行一三間の町屋敷を所持する「安井三鉄」である。「是(これ)は地子(じし)屋敷御帳ニも御座候(ござそうろう)」とあるが、元禄一五年(一七〇二)二月にこの町屋敷が同じ町内に住む町人の紀伊国屋長右衛門に渡った際の貼り紙には「今井市兵衛町伊奈半左衛門御代官所」「保井助左衛門」とある。代官に地子を上納する屋敷地(年貢地)を町並屋敷というが、ここでは「町屋敷」とされている。
 この地主は、当初は幕府の碁所(ごどころ)で、後に貞享暦(じょうきょうれき)を作成して幕府の天文方となった安井算哲(やすいさんてつ)(後に保井(やすい)、渋川と改姓)、つまり渋川春海(しぶかわはるみ)である。この辺りはかつては今井村と称されたが、承応三年(一六五四)に虎ノ門や外堀の幕府用地、および武家屋敷になると、村人は数か所に移住した。移住先の「百姓町家」は「今井町」と称されたが、そこから石高を分けた今井台町と今井谷町は元禄八年(一六九五)に市兵衛町(現在の六本木一・三丁目)と改称された(「町方書上」)。春海の町屋敷が存在した「今井町」および「今井市兵衛町」は、この市兵衛町に相当すると考えられる。貞享三年(一六八六)九月には、春海の妻子も京都を発ち江戸の麻布に移住したが(林・和田 二〇〇二)、ここに春海の居所があった可能性がある。