文政一〇~一一年の武家地主

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 表4-2-3-2は、「町方書上」から拝領町屋敷が存在する港区域の町を抽出したものである。港区域では五八町に七〇一筆の拝領町屋敷を確認できる。天和三年(一六八三)頃と同様に、芝地域には一定数の武家地主が存在したと言えるが、文政一〇~一一年(一八二七~一八二八)には青山と麻布に多くの拝領町屋敷が存在したことが特筆され、赤坂や三田などにも確認される。
 青山には最多の二四三筆が存在したが、青山浅河町(現在の北青山二丁目)は黒鍬(くろくわ)者(江戸城内の掃除・荷物運搬係)九六人、青山五十人町(現在の北青山二丁目)は御作事方定普請同心五〇人、青山御掃除町(現在の赤坂四・七丁目)は御掃除者三〇人、青山御手大工町(おてだいくまち)(現在の南青山二丁目、本章一節二項参照)は御手大工衆二五人、青山御炉路町(おろじまち)(現在の北青山一~二丁目)は御炉路之者(露地之者、清掃・茶道具運搬係)一四人、青山六軒町(現在の南青山一~二丁目)は紅葉山御霊屋付御掃除之者(もみじやまみたまやつきおそうじのもの)(江戸城の紅葉山霊廟の清掃係)六人という、江戸城で働く幕府の御家人が、当地を拝領して成立した町である。これらは同じ役職の者が集団で拝領した大縄拝領町屋敷である。青山若松町は小人目付(こびとめつけ)と小普請組(こぶしんぐみ)支配の者の拝領町屋敷で構成された。

表4-2-3-2 港区域の拝領町屋敷 文政10~11年(1827~1828)
『町方書上』五・六・九(江戸東京博物館友の会、2014・2014・2016)をもとに作成

注1)拝借地、上納地、役地、抱屋敷は除く。
注2)地主は「地面内住居」(居付)、「他住居」(不在)などと明記されている人数である。
注3)1筆の拝領町屋敷を複数人で拝領している場合もある。筆数と拝領人数が異なる分の拝領人数は以下の通り。
 ※1:3人、※2:7人、※3:24人、※4:37人、※5:85人、※6:16人
 ※7:3筆は大縄地(拝領人27人と用金屋敷2カ所)
 ※8:3人、※9:2人、※10:6人、※11:14人、※12:22人、※13:4人


 
 麻布にも拝領町屋敷は多いが、麻布田島町(現在の白金一・三・四丁目)は元禄一三年(一七〇〇)に武家一〇人が当地を拝領し、その後、白金御殿番人八人、宝永三年(一七〇六)に芝増上寺御霊屋御掃除頭二人、同五年に武家方一八人、同一六人、同一七人、同六年に同六人、そして享保二年(一七一七)に御厩御口役六人の計八三人が順次拝領して形成された町である。西久保の神谷町(現在の虎ノ門五丁目)は、筆数は七筆と多くはないが、そのうちの三筆は一六二二坪余、二一八一坪余、七六九坪余の大縄地である。「町方書上」では、大縄地を一筆として書き上げるか、拝領主ごとに内訳を示すか、町によって記載方法が異なる。表4-2-3-2はこの違いを加味しておらず、表を読み取る際には注意を要する。神谷町の三筆の場合、前二者の一六二二坪余と二一八一坪余の分は徳川家康が三河国から引き連れてきた中間(ちゅうげん)(主人の供廻りや諸役所の雑用係)、後者の七六九坪余は同じく小人(こびと)(軽輩の雑用係)が、慶長一九年(一六一四)に当地を拝領し、元禄九年(一六九六)に町屋敷となった大縄拝領町屋敷である。これらの三筆には、筆数以上に多くの武家地主が存在したのである。そして、芝地域の町々には、小規模な拝領町屋敷が点在する事例が多いと先に述べたが、二葉町の大半は江戸城の大奥女中の拝領町屋敷である(図4-2-2-1 本章二節二項参照)。
 以上のとおり、文政一〇~一一年頃の港区域の町人地には、青山や麻布などの台地上を中心に多くの拝領町屋敷が存在し、特に青山などでは多くの大縄拝領町屋敷が確認された。表4-2-3-2を見ると、これらの拝領町屋敷を所持する武士のうち、少なくとも八四人は居付地主として町内に居住しており、青山では二四三筆のうち六四人が居付地主である。表4-2-3-2には「町方書上」に居付地主か不在地主かが明確に示されている分のみを計上しているが、例えば麻布田島町では、八五人の地主(拝領町屋敷は八四筆)のうち四九人が不在地主と記され、町内に居住する住民の戸数を記す箇所に「拝領地主は除く」とあることから、記載のない残りの三六人は居付地主の可能性がある。武家の居付地主の正確な人数を把握することは容易ではないが、拝領町屋敷には一定数の武士が実際に居住したと考えられる。
 青山などでは地主だけではなく地借の武士も確認できる。傘張りは収入が少ない御家人の内職として知られるが(二章五節二項参照)、青山浅河町は傘張りを生業(なりわい)とする人が多く住んでいたことから「傘町」と俗称された(「町方書上」)。こうした町々では、武士は武家地、商人・職人は町人地、という身分別居住の原則が崩れている。表4-2-3-2は拝領町屋敷を集計した表であるが、町人地と武士との関係が確認されるのは拝領町屋敷だけではなく、武士が町屋敷・町並屋敷を購入して地主となった事例もある。港区域には武家地が広く展開したが、町人地でも地主や住民として武士が混在するありようは、港区域の特徴を示していると言えよう。  (髙山慶子)