荊沢村は駿信往還の韮崎宿・鰍沢宿の中間で発達した宿村で、市川家は、同村の名主の家筋であった。幕末には近辺の村も含め、六〇〇石分の土地を所持した。表4-2-4-1は、一八世紀半ばから一九世紀初頭の江戸の町屋敷の利益をまとめた帳面から、当時の市川家が所持していた町屋敷の情報を整理したものである。同家は、明和三年(一七六六)取得の1麴町六丁目を皮切りに、四谷・麴町および赤坂という江戸の西部から南部にかけて、一八世紀後半に町屋敷を取得していることがうかがえる(図4-2-4-1)。四谷塩町一丁目の町屋敷の先地主をはじめ、四谷地域には一七世紀後半より甲州の者が町屋敷を取得しており、おそらく甲州街道との関係から、甲州の者たちがこの地域に進出したと推測される(岩淵 二〇二〇)。
市川家が江戸に進出した経緯や町屋敷獲得の理由ははっきりしないが、町屋敷経営による収入や、資産のほか、家守(本節一項参照)から手紙でひんぱんに伝えられる江戸の米・大豆・麦・油・銭などの相場情報も経営において意味を持っていたと考えられる。
表4-2-4-1 市川家の所持町屋敷・家質屋敷
安永2年(1773)「江戸屋敷賃幷地代請取帳」 * (山梨県立博物館所蔵市川家資料)をもとに作成した第3-31表(東京都埋蔵文化財センタ-編『新宿区四谷一丁目遺跡 第3分冊』〈東京都埋蔵文化財センタ-調査報告第350集、2020〉)を転載 一部改変
『東京地主案内』の列は、市川家の所持が確認できたものは〇、確認できなかったものは×とした。
図4-2-4-1 市川家の所持町屋敷と家質・購入を検討した町屋敷
東京都埋蔵文化財センタ-編『新宿区四谷一丁目遺跡 第3分冊』(東京都埋蔵文化財センタ-調査報告第350集、2020)、第3-31図を一部加筆のうえ、転載
記号は表4-2-4-1および「物件化した町屋敷」の項参照