では、家守、さらに各町屋敷をまとめて世話をしていた世話人が市川家に送った手紙(*)から、町屋敷経営の詳細を見ていこう。表4-2-4-2にみるように、裏伝馬町屋敷では毎月「釣へ(瓶)直し代」が計上されているが、これは積み立て金であろう。それだけ井戸の維持費が必要だったことがうかがわれる。また、五月に普請で金四両一分二朱・銭六〇三文の支出が生じている(表4-2-4-2の★)。これは、6勇助・7万蔵の店の家根一九坪の葺き替えと、9利八・8千之助の店の引窓(天窓)二か所の取り替えという小規模な修復である。こうした軽微な工事の費用であっても半年分の実収益の二割を占めている。また、年不詳の八月七日の手紙では、敷地の裏部分の下水が大破し、下水溝の木の蓋も朽ちてしまったので、すべて作り直すことが伝えられている。
とくに、屋根の傷みは早かったようである。寛政二年(一七九〇)の八月一九日・二〇日には大嵐が江戸の町を襲った。本所では一尺(約三〇センチメ-トル)ほど床上浸水が発生し、港区域では赤坂地域や芝地域で突風によって屋根が吹き飛ばされる被害が出た(東京市編 一九二三)。市川家へあてた手紙の中では、次のように述べられている。「今回は近年まれにみる大風で、最近建てられた瓦屋根や板葺きの屋根は飛ばされなかったが、古い屋根や壁・板塀は大きな被害を受けた」(「一面家根・かべなと板べい吹はらい、近年ニ無御座(ござなき)大あれ」、「借家何(いず)れも屋根古キかたは吹はらい破損多御座候、瓦家・板家も新キハ潰不申候」)。そして、市川家所持の元赤坂町屋敷の裏長屋も甚大な被害を受けたとしている。
その後の手紙によれば、裏長屋の板葺きの屋根板はすでに七月下旬からの風で痛んでいたため、八月上旬に吹き替え工事を行っていた。その際、一棟については、屋根の三分の二に新しい杉板、三分の一に古板を用い、七年は保証するという約束で「どう(銅)の針」(銅製の針金)によって固定していたため、今回は屋根の被害は出ず、店子も喜んでいるという。しかし、残る裏長屋の二棟と表店については、屋根に「どう(銅)の針」を用いておらず、今回の大風で吹き飛んでしまった。このため、屋根を再び修繕し直し、入口・敷居の入れ替え、壁・戸の修理を行い、さらに路地の下水溝の蓋板や井戸の修復、芥溜めや雪隠(せっちん)(共同トイレ)の作り直しを行った。大風の後、屋根板や手間賃が高騰していたため、金一七両もの出費となった。手紙では、元赤坂町屋敷の家守は収益を市川家に滞りなく納めていたが、今回は以前の修復が甘かったために損失が出てしまったと評している。
このことから、屋根は大嵐でなくとも恒常的な風雨で劣化がすすむものであり、「どうの針」を用いても七年程度しかもたず、ひんぱんな修繕が必要であったことがうかがわれる。