火災と町屋敷経営

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 このほか、火災で被災すると、店貸しの町屋敷の場合、地主による全面的な建て直しが必要となった。ここでは、寛政四年(一七九二)七月と文政六年(一八二三)一二月の火災をみておきたい。
 寛政四年七月二一日の火災は、麻布笄橋から出火した。昼四ツ半(午前一一時)過の出火で、飯田町の椎木坂辺りの内堀で止まるまで、長さ二里半(約九・八キロメ-トル)、幅一〇町(約一・一キロメ-トル)を焼き、目黒行人坂の火災(一章三節一項参照)以来の大火だと、家守らは報告している。その手紙によれば、赤坂の町屋の半分、麴町の町屋の七割が焼け、市川家の所持する麴町一丁目の町屋敷、裏伝馬町屋敷と元赤坂町屋敷も焼失した。翌日には焼灰を処理し、家守の仮屋と雪隠を建て、敷地に板囲いをした。当初は、紀州藩赤坂中屋敷(二章一節二項参照)の火除地として赤坂門前の一帯が幕府に接収されるという噂が飛んだため、赤坂の工事は着手が遅滞したという。
 元赤坂町屋敷の場合、その後の九月の手紙によれば、地借人が少ないため、「粗末」な建て方にしてすべて店貸しにするという方針をとり、土塚村(現在の山梨県笛吹市)の古谷専蔵の関係者である神田紺屋町二丁目ふるや藤左衛門に請け負わせることが検討された。しかし、ふるやが他の仕事が立て込んで着手しなかったため、一〇月にはふるやとほか大工二人より見積書をとった。
 ふるや藤左衛門は、表店四軒(三間梁・桁行八間五尺)・裏長屋二棟(二間梁・桁行一五間、四間梁・桁行一六間)で屋根・壁を合わせて金一七〇両、ほか隣接する大下水(一章二節三項参照)の石垣の代金を金一両一分・銀一〇匁とした。大工藤次郎は、表店を除き裏店二か所(四間梁・桁行片流し七間二尺、二間梁・桁行一五間 店数〈部屋数〉二七軒)で一〇九両二分二朱、壁方二二両二分、屋根方一三両二分と見積もった。大工安右衛門は、表店(三間梁・桁行八間四尺)・裏長屋二棟(四間梁・桁行一六間 店数一八軒/二間梁・桁行一五間 店数九軒 二階建)で、屋根代を除き金一四八両二分・銀一一匁八分としてきた。このうち、藤次郎は丈夫に作るため高額になっているという判断から除外し、ふるやの詳細を確認したところ、屋根は一坪あたり九匁、地形(じぎょう)(地盤)は現状のままで、柱・土台の材木も細くして見積もったとのことであった。江戸の世話人や家守は、①ふるやの一坪あたり銀九匁の屋根では、大風の時に吹き破れるのは明白で望ましくない、②屋根の代金を引くと金一五〇両となるので安右衛門と値段は同じとなる、③値段は同額でも、安右衛門のものは軒が長く、柱の間隔も畳が敷きやすいようになっており、使用する材木や壁土も質がよく、路地も便利に設けられており、相対的にふるやより設計・仕様がよい、という理由から安右衛門に決定した。
 そのうえで、赤坂の町内ではだいたいが地盤を直しているとした上で、裏伝馬町屋敷は地盤が痛んでおり、ここでこのまま建てると後々建物を損じてまた修理費がかかることになる、とする。そして、柱下に礎石をおいて土を相応に入れれば最小限の「下」の直しとなるが、「中の下」の金七両二分の地盤の修正をすすめるとしている。また、屋根は近年の二回の大風で他の町屋敷の安い仕様の屋根はだいたい吹き飛ばされており、損失が生じるので、今回は屋根職にたのみ、一坪あたり銀一〇匁五分で、別途「どうの針」で締めるとしている。
 安右衛門は江戸の関係者の知人であり、国元のつてのあった大工を排除し、さらに安右衛門と結託して市川家を騙した可能性もある。しかし、総店貸しを前提とした安普請をめざして経費をおさえつつも、屋根と地形は建物を長持ちさせるために重視していたことがうかがえよう。
 その後の経緯は不明だが、工事は建物ごとに、同年冬(東の長屋 金五〇両三分・銀一〇匁)、翌寛政五年(西の長屋 金八八両・銀一〇匁一分)、同年(表店一軒 二五両二分・銀二匁八分)、翌六年(表店一軒 金四二両二分・銀一三匁七分)の三年にわたって実施され、結局、計金二〇七両一分二朱・銀二匁一分の出費となった。寛政五年の西の長屋の普請では市川家側から経費についての質問があったようで、屋根からの雨漏りについては以前から店借より苦情が寄せられており、寛政二年の大嵐の失敗を受けて屋根への銅の針金による固定は欠かせないと説明している。また、この際には路地の下水の蓋板も追加で修復しており、こうした追加の修理によって当初の見積額より最終的な経費が高額になったと推測される。
 この経費はさきほどの収支の帳面(表4-2-4-3)からは差し引かれていないが、実は全町屋敷の一年あたりの実収益金二四〇両の八六パ-セントにあたっている。町屋敷経営の中で、火災は大きな損失となったのである。ただし、裏伝馬町屋敷の普請経費は、金六二両・銀一四匁で済んでいる。
 ここで火災と普請の例をもう一つみてみたい。文政六年(一八二三)一二月二五日に麴町三丁目で発生した火災は、範囲こそ広くなかったが(図4-2-4-5)、麴町一丁目町屋敷、四谷塩町一丁目町屋敷のほか、裏伝馬町屋敷が文化八年(一八一一)二月の被災に続き、全焼した。翌文政七年一月には、これまで居住していた地借から、自分たちで建物を建てて住み続けたいので地主の市川家より資金を借り入れたい、という要望があったことが伝えられた。こうした結果、表4-2-4-2にみるように、家守を含む八人の地借のうち六人が合計で金八一両を無利子で借用している。二月には家守の建物と二間×四間の店二軒を建て、その後は、市川家自身が江戸に出府した際に生活するための施設と思われる「休息所」と「横店」以外は、地借自身によって建物が再建された。市川家の出費は、店借し分と休息所、ほか敷石や下水等の金八四両・銀八分三厘であった。
 

図4-2-4-5 家守が報告した文政6年(1823)12月25日の火災の焼失範囲
「(半蔵門附近類焼見取絵図)」*山梨県立博物館所蔵市川家資料


 
 市川家の三か所の町屋敷の工事費用は計金三一七両三分二朱・銀一匁四分四厘で、座頭などから計六〇〇両を借用しているが、主に地借で構成されていた裏伝馬町屋敷の場合、地主自身の出費はかなり抑えられたのである。なお、市川家から借金をした地借六人のうち、五人は期限であった五年後の文政一二年(一八二九)までに借金を完済している。