市川家では、文化一三年から一四年にかけて、江戸の町屋敷の新規購入か、家質(町屋敷を抵当とする借金)への新規貸し付けを検討した。一族の久右衛門が先に江戸に出て、家守・世話人らとともに情報を集め、当初は町屋敷を所持する四谷・赤坂地域で、麴町六丁目、赤坂田町二丁目、竹町大横町角三軒目(麴町十二丁目)の町屋敷が候補にあげられたが(図4-2-4-1:1、A、B)、市川家の当主が実見し、最終的には町屋敷の入手には至らなかった。その後、江戸日本橋の本材木町三丁目(図4-2-4-1:C)が候補として浮上したが、当主が帰国後であったため、実見が実施できず、やはり購入には至らなかった。
赤坂田町二丁目の候補となった町屋敷は、成満寺の南隣で、間口が京間八間(約一五・三メ-トル)・奥行拾八間三尺(約三三・九メ-トル)で沽券高三六三両の町屋敷であった(図4-2-4-1:A)。月の地代銀八分、店賃銀二分で、一年の収益が金三二両・銭一九貫八〇〇文、このうち町入用と家守給金の金九両二朱余を引いた金二二両・銭一九貫八〇〇文が純利益であった。家質の希望者は、この町屋敷を抵当に年の利息銀六分で金二五〇両の借用を望んでいた。
まず先に出府していた久右衛門の見立てでは、たいへん良い土地で、とくに町屋敷図(図4-2-4-6)のとおり、地借が多いのが利点である、と知らせてきた。このあと出府した市川家当主の文蔵は、一人で町屋敷近辺を歩き、国元にその印象を報告している。この報告では、町屋敷のある赤坂田町五町の通りは東に行けば行くほどさびれるといい、すでに町屋敷を所持している赤坂裏伝馬町・元赤坂町といった赤坂門の近辺とは大分違うが、町屋敷はこの通りの中程にあり、先方の要望する借金に対して土地も広く、屋敷の三面で商売ができる土地で(「三方面ニも相成候場所」)、明屋敷がないことから、今後もずっと価値が下がることはない町屋敷(「万代不同前之場」)、とみている。
図4-2-4-6 家質の候補となった赤坂田町二丁目町屋敷
「赤坂田町二丁目図面」* 山梨県立博物館所蔵市川家資料
しかし、翌日に文蔵が江戸の町屋敷の世話人と出向いたところ、文蔵の評価は一変し、あらためて手紙を送っている。対象の町屋敷は、前日見ていた町屋敷からさらに半丁(約五五メ-トル)ほど東の場所であった。南向きの土地であるものの場所が悪く、町屋敷の南側は「飢人」ばかりで、北側の堀端に地借の道具屋がいるものの、資金がなく自身の土地に建物を建てられないためにやむを得ず地借しているように見受けられた。土蔵が一つもなく、家守の管理も行き届いておらず、場所が悪い(「大不印之地面」)にもかかわらず、明店が一軒もないのは、むしろ地代・店賃の取り立てが緩いからだろうと推測している。そして、家質を受ければほぼ確実に質流れとなり、売却しようとしても場所が悪いので高額では売れず、後々取り扱いに困る土地(「厄介之地」)になると思われるので、断るべきだと判断している。文蔵は、この国元への報告を、町屋敷の評価は人任せにはできず、今回自身が出府したことは「天之助」だと思ってほしい、と結んでいる。また、別の手紙では、もう一か所の竹町の屋敷もともに、まるで駄目なもの(「一向之もの」)だとしている。
これまで見てきたとおり、収益の見積もり額と実収益には差が生じており、とくに火災による損失は大きかった。したがって、立地、借家人の定着度、借家人の経済力(地借であるかどうか)を慎重に吟味する必要があった。不在地主にとって、町屋敷はあくまでも資産・投資の対象としての物件だったのである。
江戸では、こうした土地(町屋敷)、建物、土蔵のみならず、さまざまな権利も株として物件化した。武蔵国上古寺村(現在の埼玉県比企郡小川町)の有力農民の小久保家に生まれた熊太郎は、江戸に出て、天保一二年(一八四一)に二葉町(本節二項参照)の町屋敷の家守の請人となり、弘化三年(一八四六)に敷金一五両を支払って家守となった。さらに、安政五年(一八五八)年には、青山久保町の髪結床の株と家作を購入し、髪結職を雇用して髪結床を経営した(吉岡 二〇〇三)。江戸では、こうした家守株や髪結株のほか、湯屋の経営の権利(湯屋株)、さらに時の鐘の鐘搗(かねつき)役や、鎧の渡し(日本橋川)の渡し船の経営権なども投資の対象として売買されるようになっていたのである。 (岩淵令治)