町屋敷単位の人別帳-「大竹左馬太郎地面住人人別帳」

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 江戸時代の戸籍制度には、キリシタンを取り締まるため住民の宗旨・檀那寺(だんなでら)などを調査する宗門改め(三章二節三項参照)と、課税・人口調査などの行政上の必要から行われる人別(にんべつ)改めがある。江戸では、天和三年(一六八三)に後者の系統に属する人別帳(にんべつちょう)の作成が町奉行から命じられ、享保六年(一七二一)の幕府による全国人口調査を機に人別管理体制の整備が進んだ。この過程を経て、江戸では町単位の人別帳が名主の下で作成・管理され、人別帳は毎年四月に作成、同月と九月には人口の増減が名主から町年寄に報告された。天保一四年(一八四三)以降は町奉行所にも人別帳が提出されるようになった。
 
 人別帳は、住民の名前、家族構成、出生地、職業、年齢などが記された、個人情報の宝庫である。複数年分が揃えば、誕生から死に至る人の一生を追跡することもできる。しかし、現存する江戸の人別帳は、四谷塩町一丁目(現在の東京都新宿区本塩町)の八冊を筆頭に、二〇数冊に過ぎない。そうした希少な人別帳のなかで、神谷町の人別帳は、町単位ではなく町を構成する一筆の町屋敷単位で作成された人別帳である。名主の下に集約される前段階の作業として、町屋敷を管理する家主が作成したものと考えられるが、このような家主作成の人別帳が現存することは極めて稀である。天保一五年(弘化元・一八四四)、弘化三年(一八四六)、嘉永二年(一八四九)の三年分が「天保十五年・弘化三年・嘉永弐年 人別帳」として一冊にまとめられ、後に付けられた表紙の題簽(だいせん)(和漢書の表紙に題名を書いて張り付けた細長い紙片)には「大竹左馬太郎地面住人人別帳」* とある(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)。以下では、この人別帳から神谷町の住民のありようを見ていく(南 一九七八、『新修港区史』一九七九、大園 一九八五)。