神谷町の住民

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 増上寺の北西に位置する神谷町(現在の虎ノ門五丁目)は、周囲を寺院と武家屋敷に囲まれた両側町である(本章一節の図4-1-3-1 ⑧参照)(神谷町については、本章二節三項・六節一項および図説五章一四節も参照されたい)。家康に従って三河国から江戸に出てきた御家人の中間(ちゅうげん)と小人(こびと)が、慶長一九年(一六一四)に大縄組屋敷として当地を拝領し、元禄九年(一六九六)に、敷地内に町人の居住を認める大縄拝領町屋敷(本章二節三項参照)となった。題名にある「大竹左馬太郎」は幕府の御家人と判断されるが、「町方書上」には、町内東側の七六九坪余の大縄地を拝領する五人の御家人のなかに「紅葉山火之番 元御小人 大竹亀三郎」の名前を確認できる。左馬太郎はこの亀三郎の後の世代の者と推定される。
 
 各冊の表紙には、作成年次のほか「人別帳」「東側拾弐」「神谷町家主平七」と記されている。最初の丁の冒頭に「地主 大竹左馬太郎地面」とあり、家主から記載が始まる。表4-3-2-1は、天保一五年四月作成の人別帳を中心に、この町屋敷の住民情報をまとめたものである。天保一五年の住民構成は、四月の時点では家主一戸、地借二戸、店借一二戸(「借家」含む、仮登録の幸蔵を除く)、一〇月以降には店借(「借屋」「借家」)三戸が加わっている(三戸のうち一戸は翌年の転入であるが便宜上併せて計上、また転入履歴不明の二戸を除く)。家持が不在の一方で、店借が八割を超える、店借率の高い町である。
 

表4-3-2-1 天保15年(1844)の神谷町の住人
「大竹左馬太郎地面住人人別帳」 * (東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)をもとに作成

※1:伊之助(上総、文政13.2)、鉄五郎(武蔵、天保10.3)、元太郎(江戸、天保14.3)。
※2:喜三郎(武蔵、天保7.3)。
※3:きく(越後、天保15.6、月雇)。
※4:※1・※2の召仕と※4幸蔵は仮登録である(「仮」とある)。
注1)鍬吉までは4月登録、佐平以下は10月以降の新規転入。( )は弘化3年の人別帳で補足。
注2)(裏借家)の甚蔵の転入は弘化2年1月28日であるが、同年4月の人別帳作成前ということで便宜上本表に含めた。
注3)弘化3年・嘉永2年の欄の○印は、当該年の人別帳に記載があることを示す。


 
 家族構成は、表地借の常吉、および裏借家の伝次郎と六兵衛が二世帯家族であり、表地借の六郎兵衛が同人の妹・叔母と同居する複合家族である以外は、核家族か単身者であり、表に掲載された全二一戸の平均家族人数は三・四八人である(召使いを含めた平均世帯人数は三・七一人)。居住年数をみると、家主一戸と表店の地借二戸と店借一戸、裏店の店借二戸の計六戸は、弘化三年と嘉永二年にも同所に居住しており、少なくとも五年間は定住していた。しかし、裏店住民の大半は五年のうちに転出しており、裏店の店借層は移動が多く不安定な存在であった。
 当主の生業は日雇いが九人で最も多く、すべて裏店層である。ほかにも、道心者(どうしんじゃ)(仏道修行者)、陸尺(ろくしゃく)(駕篭(かご)を担ぐ人足)、按摩(あんま)(もみ療治を行う盲人)、油売りなど、裏店層の生業の多くは、出先で働く零細なものであった。大工職、箒(ほうき)職、拵(こしらえ)屋(刀の装飾品を作る職人)という特定の技能を身につけた職人も、少数ではあるが確認できる。拵屋は、拝領町屋敷の地主や周辺の武家屋敷の武士を顧客としたのであろう。一方、家主や表店層は、鉄物屋、煮売り酒屋、手掛け屋(金物屋)、駕篭屋(客に駕篭を仕立てる業者)を営んでおり、いずれも店舗を構えていたとみられる。家主・表店と裏店の住民とでは居住年数や営業形態が異なり、前者は安定した、後者は不安定な、生活状況・営業実態であったと考えられる。
 
 世帯主の出生地に着目すると、表4-3-2-1の全二一戸中、江戸生まれは七人で三三・三パーセントに過ぎず、六六・七パーセントの一四人は他所出生である。その一四人のなかでも、江戸に近い武蔵国で生まれた人は二人のみであり、ほかは越後国三人、三河国三人、越中国一人、能登国一人、上総(かずさ)国一人、下総(しもうさ)国一人、駿河国一人、因幡(いなば)国一人と、神谷町には様々な国々から江戸に出てきた人が居住した。
 家主の平七は上総国長柄(ながら)郡上市場村(現在の千葉県長生(ちょうせい)郡睦沢町(むつざわまち))出身であった。妻のれいは江戸生まれであるから、平七は単身で江戸に出た後に家族をつくり、鉄物屋を営みながら家主を務めるまでになった。居住年数や召使いの人数からみると、平七は神谷町の最有力者であったと考えられる。地方出身者は不安定な店借層に身を置くことが少なくないが、平七のように安定した家を形成することに成功した者もいたのである。