渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町の住民

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 渋谷長谷寺門前は、延宝(えんぽう)九年(天和元・一六八一)に長谷寺境内一万九一一八坪のうち六七二坪が通りの拡幅のため収公され、その翌年の天和二年(一六八二)に家作二六軒の建て替えを許されたことが、町としての始まりである(「町方書上」)。「百姓家作」「百姓家」とあり、元来このあたりは年貢を代官に上納する村であった。安政四年(一八五七)の尾張屋版切絵図「東都青山絵図」においても、長谷寺の周囲には武家屋敷が多いが、寺の北側から東側には原宿村(現在の南青山四丁目、西麻布二丁目、東京都渋谷区神宮前、東京都渋谷区千駄ケ谷など)の田畑が広がっている(図4-3-2-1)。長谷寺の敷地に隣接する渋谷御掃除町は、増上寺にある二代将軍徳川秀忠の御霊屋(三章三節一項・同六節二項参照)を掃除する御家人たちの拝領町屋敷として、宝永六年(一七〇九)に元地の収公による代地として下賜された。このあたりは都市江戸の南西の外縁部にあたるが、当初から両町とも寺社奉行の支配を受け、長谷寺門前は延享二年(一七四五)閏一二月、御掃除町は同三年に町奉行支配となった。
 

図4-3-2-1 渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町周辺図(上部が北)
「東都青山絵図」(青山渋谷絵図、部分)国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 
 「人別送」には八一件の転入について記帳されている。一件目は安政六年に両町の名主になった辻四郎兵衛自身の転入である。四郎兵衛は久保三田町(みたまち)(現在の三田一丁目)の地借で四四歳。妻、息子二人、娘一人、母一人の六人家族であったが、名主就任に伴い、前の名主である伊東仁左衛門が所持していた長谷寺門前の地所に引っ越してきた。二件目以下には、転入元から名主の辻四郎兵衛に宛てられた人別送り状が書き写され(一部は原本が綴じ込まれ)、転入の確認として各丁(ページ)の上側に割印がある。
 
 表4-3-2-2は、八一件の転入事例について、転入者の生国(出生地)、転入前の居所と生業、転入後の階層をまとめたものである。家族連れの場合は世帯主のみを人数に計上したが、御掃除町に転入した一件のみは召使い二人分がまとめて記されているため、表4-3-2-2の合計人数は八二人となっている。生国を見ると、両町とも江戸あるいは江戸に近い武蔵国が大半を占め、転入前の居所は麻布が最も多く、青山、芝、飯倉、赤坂、三田、西久保という現在の港区域内の町々が目立つ。両町には近隣からの転入者が多いことが読み取れる。江戸と武蔵国以外の遠方の地方出身者であっても、出身地から直接転入してきたのは、常陸国河内郡龍ケ崎村(現在の茨城県龍ケ崎市)から渋谷御掃除町の家主喜兵衛のところに召使いとしてやって来た東三郎と源助のみであった。彼ら以外は、例えば陸奥国岩手郡盛岡(現在の岩手県盛岡市)出身の青物売り(野菜の行商)の重吉は、妻・息子・娘の四人で渋谷御掃除町に転入してきたが、転入前の居所は麻布永坂町(現在の麻布永坂町・六本木五丁目・元麻布三丁目)であり、出身地から直接出てきたわけではない。つまり、地方出身者は江戸に出た後も、江戸の中で転居を重ねていたと考えられる。
 

表4-3-2-2 幕末の転入者-渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町-

「辻氏御用留 三(人別送)」(東京大学法学部法制史資料室所蔵)をもとに作成
安政6年(1859)~慶応3年(1867)の転入者。家族連れの場合は世帯主の人数のみを計上。- はどちらの町か不明。


 
 生業は両町とも日雇いが最も多く、洗濯稼ぎ、紙屑買い、賃仕事といった零細な職種や、青物売り、米舂(こめつき)(米搗(こめつ)き、玄米の精白と小売り)といった体力を要する仕事も見られる。職人も少なくないが、総じて店舗を構えて営業する業種は少ない。渋谷長谷寺門前の「召仕」(召使い)三人のうち二人は、小普請組の安藤与十郎支配の杉山粂之助内の山本久兵衛と、同じく小普請組の奥田主馬組の永井郡太郎とその父金之進が、それぞれ抱えていた者、「厄介之徒弟」は御賄新組頭古屋善次組の横須賀兵三郎の徒弟、御掃除町の「下屋敷地守」は江馬金六郎の家来、両町のいずれか不明の「家来・召仕」は伊達遠江守(宗徳、伊予宇和島藩主)の家臣である米本喜兵衛が抱えていた者で、いずれも武士に雇われた武家奉公人である。武士との雇用関係を解消して両町に転入する際には、「此方人別相除(このほうにんべつあいのぞ)キ候(そうろう)間、其(その)御支配人別ニ御差加(さしくわ)え可被給(たまわるべく)候」、「此度(こたび)町人別願出申(ねがいいでもうし)候、其御町内人別無相違(そういなく)御加入可被下(くださるべく)候」などとあるように、雇用主の武家の人別から除籍し、町方人別に加える手続きが取られている。これらの事例では、居所の移動だけではなく、身分の変更もなされた。
 転入後の階層は、名主の辻四郎兵衛自身(家持)と、渋谷御掃除町の家主として同町に引っ越してきた升蔵の事例を除けば、独立した世帯として確認できる転入はすべて店借である。表中の「同居」とは、婚姻や養子、離縁による里方への出戻り、召使いとしての雇用など、両町の住民の下に身を寄せた事例をまとめたものであり、合わせて二八人を確認できる。江戸の住民移動には、世帯としての移動だけではなく、こうした個人単位の移動も少なくなかったことが知られる。
 以上より、渋谷長谷寺門前と渋谷御掃除町には、港区域の町々を中心に、近隣地域から零細な稼業を営む人々が絶えず流入していたと考えられる。転入のみでは町の人口はあふれてしまうので、転入と同様に転出も頻繁になされたものと推察される。先にみた神谷町には多様な出身地の人々が居住していたが、いずれの町においても、地方から江戸に出てきた人や近隣の住民を取り込みながら、常に流動する零細で不安定な店借層が形成されていた。  (髙山慶子)