大養寺門前町は、大養寺(慶長一六年〈一六一一〉に同地で開創)の表門の両側に設けられた七七六坪余の町屋である。前項でとりあげた神谷町と隣接して、西久保通りに面している(図4-3-3-1)。町屋が許可された年代は不明であるが、年季切替の申請(所定の一定期限ごとに再申請すること)が不要の門前町で、延享二年(一七四五)に町奉行の管轄となった(門前町については次項参照)。
図4-3-3-1 大養寺門前町とその周辺
「芝口南西久保愛宕下之図」(芝愛宕下絵図)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載
では、天保一四年(一八四三)八月に境内の作事の申請にともなって提出された図面と戸主の職業・来歴をみていこう。大養寺より貸されている地面は一二筆である(図4-3-3-2 門の北側六筆a~f、南側四筆g~j、奥の貸地二筆)。住居は五七軒(うち明家が五軒、この時点で建物が建てられていない明地二軒)で、このうち通りに面した表店が二〇軒(うち明家一軒、明地二軒)、裏店が三七軒(うち明家四軒)であった。このほか、薬品や薬草を入れた湯を提供する湯屋(薬湯)が一軒あった(表4-3-3-1)。
図4-3-3-2 天保14年(1843)の大養寺と門前町
「浄土宗諸宗作事図帳」* 国立国会図書館デジタルコレクションをもとに作成
表4-3-3-1 大養寺門前町の戸主の職種
「浄土宗諸宗作事図帳」* 国立国会図書館デジタルコレクションをもとに作成
図4-3-3-3 大養寺門前町町屋敷c
「浄土宗諸宗作事図帳」* 国立国会図書館デジタルコレクションをもとに作成
最も規模が大きいのは、間口七間の表店で菓子職を営む壺屋忠三郎で、奥行一三間の敷地いっぱいまで店舗と土蔵を設けている(町屋敷c 図4-3-3-3・4)。しかし、残る表店一六軒のうち、八軒は間口がわずか一間半で、二・三軒が連なった表長屋であった(町屋敷i 図4-3-3-6ほか)。また、裏店は、一軒あたりの間口が一間半(二八戸)か二間(七戸)、奥行はほとんどが二間半(三二戸)で、多くは三軒から五軒が連なる棟割長屋であった(町屋敷i 図4-3-3-5・町屋敷b 図4-3-3-6ほか)。
図4-3-3-4 壺屋忠三郎の店舗
『東京盛閣図録』 (明治18年刊)国立国会図書館デジタルコレクションから転載
大養寺門前町は明治2年に西久保八幡町と合併したため、図中の町名は西久保八幡町となっている
図4-3-3-5 大養寺門前町町屋敷i
図4-3-3-6 大養寺門前町町屋敷b
記載のあった戸主五〇人の職種は四一に及び、特定の職種には集中していない(表4-3-3-1)。全体的な特徴として、職人の比率が高く、表店についても職人が多いことが特徴としてあげられる。また、裏店については店舗や広い作業場を必要としない日用や出職人が多く居住していることが確認できる。
戸主五〇人のうち、最も居住が長いのは一一二年の市兵衛(町屋敷g)で、これに九二年(町屋敷b 長兵衛)が続き、以下、長期で居住している者は表店に多くみられる(図4-3-3-7)。逆に、裏店は、〇年、一年が半数を占め、表店の平均が二八・一年であるのに対して、裏店の平均は五・一年である。裏店の住民の流動性の高さをうかがわせる。
図4-3-3-7 大養寺門前町の戸主の居住年数
なお、戸主の出身は、不明の二人を除く四八のうち、半径一・五キロメートル圏内の町が四二人(八七・五パーセント)で、このうち神谷町からの転入が一四人を占める。
このように、表店と裏店の住民は、前項の神谷町と同様、職業や町への定着度に違いが見られた。ただし、大養寺門前町の場合、裏長屋のみならず、表店が長屋であるなど狭小であった点が特徴としてあげられる。また、住民の移動範囲もかなり狭く、門前町と一般の町の区別なく、一定の地域の中で暮らしていたことがうかがえる。 (岩淵令治)