門前町は元町・西町・東町・代地町の四か町で、このほか町屋敷として麴町三丁目北側に町屋敷を所持していた時期もあった(表4-3-4-1)。元町と東町は慶安五年(承応元・一六五二)に町屋が許された。西町は境内の西側の裏門側で、宝永六年(一七〇九)六月に町屋の申請がなされ、七年四月に許可を受けた(図4-3-4-1・2)。ちょうど七年四月には善福寺の門前から火災が発生しており(『徳川実紀』)、その救済措置として年季を区切らない町屋として許された可能性もある。これら三か町はいずれも、延享二年(一七四五)には人別が町奉行所の支配に編入された。
表4-3-4-1 善福寺門前町の概要
「門前町屋小間御改」* (「門前地所書上」所収 善福寺所蔵)、安政4年(1857)閏5月「地所書上覚」・安政6年「拾年季書替諸事扣」(「諸願記」所収 善福寺所蔵)により作成。
ただし、天保9~弘化4年の屋敷数は「諸宗作事図帳(一)」(国立国会図書館所蔵、816-6 天保9~弘化4年〈1838~1847〉)、間数・坪数および家数とその内訳は「町方書上」(国立国会図書館所蔵、数値は史料の記載に従った)による。
図4-3-4-1 善福寺と門前町(東町の飛地と代地町を除く)
「東都麻布之絵図」(麻布絵図)国立国会図書館デジタルコレクションから転載
図4-3-4-2 正徳4年(1714)の善福寺と元町・西町・東町
「善福寺境内図」* 善福寺所蔵
また、代地町は、東町の一部が元禄一一年(一六九八)に、新堀川の拡幅工事(一章三節二項参照)にともなって「御用地」として幕府に取り上げられ、寺が代わりの土地を願い出た結果、翌一二年に一キロメートルほど南東の三田で、伊予小松藩一柳家下屋敷に隣接する明地のうち同面積の分を拝領した。この地で、享保一三年(一七二八)九月に家作を申請し、翌年九月に認可された(「御府内場末往還其外沿革図書」、「町方書上」ほか)。ただし、町屋は一〇年おきに寺社奉行に申請する必要のある年季町屋である点が、他の三町とは異なる。善福寺には、天保九年(一八三八)一一月(「代地町拾年季書替諸事扣」*)・安政六年(一八五九)九月(「諸願記」*)の出願にかかわる史料が残されている。前者では、住民が借地の継続を望んでいることと、この貸地の収益によって寺院の家作の修復を行っていることを理由にしている。さらに、後者は本来の申請年から一年遅れたものの、結局は幕末まで存続している。設置から延長をし続けていることから考えて、寺院経営にとって重要であり、かつ実際の継続申請はかなり形式的なものだったと思われる。
このほか、正徳三年(一七一三)六月の段階で、寺中一三か寺のうち八か寺が町屋や武家へ土地を地貸していたが(「門前地所書上」*)、その後の展開は不明である。
町の景観については、西町・東町が認可された宝永七年(一七一〇)に幕府から申し渡された規定より、初期の様相を知ることができる。表通りに面して高さ一間(約一・八メートル)の竹垣を設け、家作はその垣根から一間空けて作ること、垣根の入口は従来の道に沿って計一〇か所とすること、家作の入口は一か所につき幅三尺とし、販売する商品は表から見えないようにすること、地面の奥に庵のようものを設けないこと、とされている。『江戸名所図会』七(天保五年〈一八三四〉刊 図4-3-4-3・4)などでは、こうした垣根は描かれていない。ただし、宝暦八年(一七五八)一〇月に代地町が善福寺に提出した「條目書」でも、垣根の設置やその場所、表に商売物を出さない旨を誓約し(「條目(宝暦)荏原豊島高取帳」*)、天保九年(一八三八)一一月の代地町の一〇年季延長の願書でも、表通りの竹垣より三尺空けて家作を設けるとある。したがって、少なくとも代地町については一九世紀にいたっても竹垣が設けられていたことになる。
図4-3-4-3 善福寺
『江戸名所図会』七 国立国会図書館デジタルコレクションから転載
図4-3-4-4 善福寺と元町
『江戸名所図会』七 国立国会図書館デジタルコレクションから部分を転載
なお、四町の住民の生業については不明な点が多い。幕末期の問屋などの株帳によれば、元町で両替屋一名・炭薪仲買のべ五名・六組飛脚屋一名・小道具屋のべ四名・質屋のべ五名・古着買のべ八名・古鉄買一名・古鉄屋一名・古道具屋のべ五名、また、西町で炭薪仲買のべ五名・両替屋一名・舂米屋一名・古鉄買のべ二三名・質屋一名・小道具屋のべ四名・古着買のべ二三名、東町で炭薪仲買のべ二名・古着買のべ二名が確認される(「諸問屋名前帳」「八品商名前帳」)。炭薪仲買や両替屋、舂米屋、古着買などの八品商は、江戸の各町でよくみられる職種であり、四町では、とくに経営規模の大きい問屋や、同職の集住はみられなかったといえよう。