四町は、いずれも元町に住む名主大久保久左衛門、のちその子孫の小川傳四郎が支配した(「町方書上」)。西町・東町が認可された宝永七年(一七一〇)には、名主の職務が確認されている(「門前地所書上」*)。とくに門前町屋の支配に関する内容としては、幕府からの法の伝達(帳面に記した上で、門前町の者を名主の家に集めて署名・捺印をとる)、火の元の安全を店借まで徹底する、公的記録の作成(門前のほか他所から届けられた事、公用に関することを帳面に記載)、門前の者による訴訟の事前の吟味と手続き(内容の吟味、善福寺への連絡と僧の付添いの願)、家作の普請など幕府に願い出る前の事前の確認(同前)、出火等が発生した場合のすみやかな善福寺への連絡、店借が身元保証人とならないように監督すること、毎年一〇月の人別帳と宗門帳の作成(宗門帳については善福寺に提出)、となっている。この時点では門前町は寺社奉行管轄であり、その後、町奉行管轄になることによって、書類を提出する役所に変更が生じたと思われるが、基本的な職務は変わらなかったと思われる。
たとえば幕府からの法令の伝達に関しては、享保九年(一七二四)六月に女性の衣服に関する贅沢禁止令(『江戸町触集成』四-五九三一)について、店借を含む門前町屋の住民すべてに伝え、遵守させることを誓約する書類が名主から出されている。また、幕末に新規の地借が善福寺に提出した証文でも、名主からの指示に背かない旨が誓約されている(「(願書・請書など綴込)」*)。
これらの職務で他の町名主(本章一節四項参照)と異なるのが、領主である善福寺への諸々の連絡である。名主は、元日、大晦日のほか、上巳の節句(三月三日)などに寺中(境内寺院)とともに善福寺に呼ばれて贈答をうけ、また暑中見舞いで献上を行うなど、善福寺の年中儀礼に参加している(「日記」)。安政四年(一八五七)九月に実施された中興の開基了海の五百五十年遠忌法会では、近隣の町を支配する九番組の名主三名(島田・鈴木・深見 前掲表4-1-4-1)との調整を行い、了海の木像を開基堂に安置する行列の先頭をつとめ、六日間の法会に毎日出勤している(「開基上人五百五拾回忌御法会要記」*)。善福寺門前町の名主は、領地の名主として善福寺の組織の一員という性格も持ったと考えられる。