善福寺門前町の「條目書」

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 一般の町では、町を運営するために、正式な町の構成員である家持によって自主的な取り決めである町法が作られた。江戸の場合、主に町入用の精算方式、町役、寄合、町抱人、幕府の御用、警察、消防、挨拶金(町礼)の規定が定められた。挨拶金とは、地主が町屋敷を購入した時、相続・養子・婚姻の際、あるいは新規に家守に就任した際に、町の構成員に対して支払うもので、江戸の町法は、とくにこの挨拶金の項目が中心となっていることが特徴である(加藤 一九九二)。
 門前町であった善福寺門前町の場合、地借が地主であった善福寺の役僧に「條目書」を提出した。さらに、代替わりや他の者に交代した際にも、善福寺に挨拶に行き、挨拶ののち名主が「條目書」の内容を申し渡し(「安政六年日記」 * ほか)、署名・捺印を行って誓約した。善福寺には、元町を除く「條目書」が現存している。江戸の門前町の規定については、まだ紹介された例はなく、貴重である。
 西町の「條目書」については町屋認可から二五年後の享保一八年(一七三三)九月、東町については享保二〇年三月に定められた「條目書」を、ともに文化一三年(一八一六)二月に改めて帳面に仕立て、すべての地借が書名・捺印したものが残されている(「條目書」*)。地借は、代替わりや他の者に交代した際に、あらためて「條目書」に署名・捺印するが、これが幕末まで続いていることから、基本的に職務内容の変更はなかったと考えられる。それでは、この「條目書」を中心に、門前町の運営をみていこう。
 まず、西町・東町の「條目書」は同文で、四か条からなる。第一条では、幕府の法、「御公用」を必ず守ること、借りた土地を又貸ししたり借金の担保としないこと、他人の借金や身元の保証人にならないこと、店借や召使いに至るまで不審な者は一晩たりとも借りた土地におかないこと、を誓約する。一般の町で家守が地主と取り交わす証文とほぼ同内容である。
 第二条は、借りた土地で店を借す場合、店借の保証人は境内の者ではなく、他所に住む身元の確かな人物とすること、町内に売春にかかわるような者を一切置かないこと、人を集めるような商売の者を置かないこと、を記す。この条文も、一般の町で家守が地主と取り交わす証文とほぼ同内容であるが、人を集める商売については、とくにさきの名主の規定で「芝居ケ間敷儀」と記されていることから、博奕ではないと思われる。これは、寺社の門前地が芸能興行の場となることを抑止する目的の項目だったとも考えられる。
 第三条では、「御本坊様ゟ(より)御用」があった場合は、町ごとに地借が一か月に五人ずつ人足を出すこと、「町並諸事入用」などは町並の通り必ず負担すること、月行事は自身番・火之番などをしっかり務めることが記される。「町並諸事入用」とは、町屋の許可に伴って宝永七年(一七一〇)の幕府役人の見分で設定された、西町前の道路の掃除・管理などが相当すると思われる(「門前地所書上」*)。この場合、向かいの大名屋敷と道路の半分ずつをそれぞれ負担した。こうした負担のほか、善福寺の御用について一か月に五人ずつ人手を出すとしている点が注目される。幕府に対する公役ではなく、領主である寺に労働力提供をする点が門前町の特徴といえよう。また、町の運営にあたっては、通常の町の家守と同じように、地借の中で月交代の責任者「月行事」を出し(本章二節一項参照)、自身番・火之番をつとめていることがわかる。
 このほか、地借は「年貢」として地代を納めた。表4-3-4-2には、西町・東町の享保八~九年(一七二三~一七二四)の土地と年貢、地借を示した。西町は一七筆(うち二筆は裏地)、東町は一三筆(うち一筆は裏地)で、一筆は不整形で五〇~六〇坪のものが多く、東町は裏地で一〇〇坪を超えるものもみられた。年貢の納入は月ごとで、この時点の納入日は毎月晦日、幕末は毎月六日であった(「(願書・請書など綴込)」*)。善福寺は東町・西町で月におよそ銀四〇〇匁の地代収入を得たことになる。なお、年貢の率は、西町が一坪あたりおよそ銀一分七厘から一分八厘、東町が一坪あたりおよそ銀一分六厘から二分四厘である。おそらく面している通りと裏地の面積によって差が生じていると思われる。
 

表4-3-4-2 享保8~9年(1723~24)の東町・西町
東町は主に「坪割年貢水帳」(享保9年2月、「條目書」*〈善福寺所蔵〉所収)、西町は主に「坪割年貢水帳」(享保8年4月、「條目(宝暦)荏原豊島高取帳」*〈善福寺所蔵〉所収)に拠る


 
 第四条では、地借の身元保証人の住所変更や死亡の場合、また地借自身の死亡や実子への相続の場合は、速やかに善福寺に届け出て、証文を書き改め、規程の手続きに従って寺への書類の提出や挨拶することを誓約する。実際に、幕末の家督相続願や、交代して新たに地借になった者からの誓約書(「借地証文之事」)が確認できる(「(願書・請書など綴込)」*)。
 また、代地町については、宝暦八年(一七五八)一〇月の「條目書」が残っており、文化一一年(一八一四)一一月まで書名・捺印が続いている(「條目(宝暦)荏原豊島高取帳」 * 所収)。基本的には西町・東町と同内容であるが、先にみたように、竹垣と家作の位置や商品を表に出さないといった規定、地代を一〇年季の期間を超えて延滞しない、といった条文が年季町屋としての独自のものといえよう。
 このように、一般の町では家持が平等に町法を取り決めるのに対し、善福寺から土地を借りた地借によって構成された善福寺門前町は、地主である善福寺に対して、通常の町の家守が地主に対する誓約と同様の内容を集団で取り結んだのである。とくに、寺院に対する役や年貢の負担、家作の規定は、一般の町法ではみられない門前町特有の規定であろう。このほか、四町の地借は、善福寺へ毎年正月一一日に年頭の挨拶に訪れ、中興開基了海の命日である一一月六日には赤飯を振る舞われるなど、儀礼を通じて結び付きを持ったのである。